2024.03.28

「書けない」を書く。Q by Livesenseとライティング

 書けない。書けない。書けない。締切はすぐそこ。書かなければならないのに、書けない。ひとまず書き出してみよう。一文だけでも——。そうやって絞り出した言葉は、どういうわけか決まって陳腐だ。ため息をつき、気晴らしに散歩に出る。しかし連れて帰ってくるのは、アイデアではなく疲労感。ああ、時間を無駄にしてしまったと、焦りに拍車がかかる。自分で自分を責め、萎縮し、もっと書けなくなっていく。

 これは、書けないスパイラルに陥っているときのわたし。書くことに向き合っている人ならわかるかもしれないが、書けない状態にいるときのメンタリティは最悪だ。自分への失望、仲間の足を引っ張っている罪悪感、取材先への申し訳なさ。目が覚めたら原稿が出来上がっていたらいいのに……。

 「書けない問題」は昔っからある。文豪と呼ばれた作家たちも、言い訳に言い訳を重ねながら、生産と締切のレースを走ってきた。
 わたしの周囲でも、編集者の知人たちが「ライターが飛んだ」という話をしていると、その場ではわきまえた素振りを見せつつも、わたしは姿をくらましたライター側に心を寄せてしまう。うんうん、うまくいかない執筆って投げ出したいくらいつらいよね。

 今回は、開き直り企画。書けないなら、書けないことを書いてしまおうという記事だ。書けないのは、ライターや作家に限らない。論文に取り組む人、寄稿を頼まれた人、企画書を練る人。みんな言葉で仕事をしている以上、言葉から逃れられない。
 この記事では、書けなさの所以を探りながら、それでも書くための突破口を探っていきたい。最終章では、わたしによく効いた書くための処方箋を紹介する。あなたがこの記事を読んでくださっているということは、少なくとも公開までこぎつけられたということだから。

書く場としての『Q by Livesense』

 このブログ『Q by Livesense』は約三年前、二〇二〇年冬に誕生した。オウンドメディアというのは通常、自社のイメージ向上や売上アップを目的にしているので、自社を持ち上げる方向性の記事が多い。一方、Q by Livesense はその王道から離れ、会社生活にあるイシューに焦点を当てた。ときに自社の恥部をさらけ出すことになるが、企業としての迷いや葛藤を共有することに意味があると判断したからだ。
 どのように受け止められるか未知数だったが、日々SNSでシェアされる言葉は想像以上に好意的だった。まだ「知る人ぞ知る」規模のメディアではあるものの、手応えの感じられる三年間だった。

 4人で始まったライター陣にはそれぞれに得意分野や持ち味があり、今ではそのちがいを楽しんでくれる読者までいる。ただ、ときどき誤解されていると感じることがあった。「書くことが得意だからできている」という誤解だ。

 他社の広報さんは「うちには、みなさんほど文章力がある人がいないから」とおっしゃる。また Q by Livesense があるアワードを頂いたときには、審査員の方から「属人的な取り組みで、なかなか他社には真似できないかもしれない」という講評があった。褒め言葉として言ってくださったのだと思うけれど、わたしは「そんなことないんじゃないか」という印象を抱いた。

 Q by Livesense のライター陣は、わたしを除いて「職業・ライター」ではない。調査や分析の専門家というわけでもない。居合わせたメンバーが、覚悟ひとつで丸腰で乗り込んだのに近い。だから、属人的な(書くのが得意な人たちの)取り組みというわけではないのだ。それでも書けるのだと自信につながった。

 しかしオープンから一年ほど経ち、雲行きが怪しくなってきた。各々の書くペースが落ちてきたのだ。一年目、公開した記事は29本。二年目は9本に減った。三年目は7本。社外からは好意的な反応を受け取っていたが、内実は最低限止まらないことに必死だった。

 ネタ切れ? それはあるかもしれない。初めはライター陣がかねてから頭の中に溜め込んでいた考えのストックがあったから。ただ、それを差し引いても書きづらくなった何かがある。ネタ切れという言葉では片づけられない摩擦が。わたしの視点から見える要因は三つ。期待が増していること、正しさに囚われてしまうこと、インプットの質が変わったことの三つだ。

自分はもっと面白いことが書けるはずだという驕り

 今の問題点は、そもそも書き始めることができないこと。書く前から面白くないことがわかってしまう。三年間の切磋琢磨がもたらしたのは、相場観。経験値が増すと、相場観がつく。メディア業に関して言えば、この話題はホットか、この切り口は新しいか、炎上回避のためにどういう言葉選びをすべきかなどなど、近視眼的にやってた頃よりも俯瞰して眺められるようになる。だからこそ、書き出す前に「これは本当に書くに値するのか」と自問しすぎてしまう。

 Q by Livesense がスタートした三年前、わたしたちはもっと自由だった。観客のいない舞台で、きゃっきゃとはしゃげるくらいの無邪気さがあった。観客(読者)が来てくれるだろうかという心配はあったが、プレッシャーはなかった。企画会議のときも「このトピックが気になるから、ちょっと書いてみます」といった具合でフットワークが軽かった。

 よく言えば、ブランドができたのだと思う。だからこそ、つまらないことは書けない。読者の期待を裏切りたくない気持ちが、駄作を生んではならないという緊張をもたらしている。

 書き始めるのに腰が重ければ、書き終えるのにも骨が折れる。こうして公開されている原稿は「最終稿」と呼ばれ、複数回の推敲を経ているわけだが、一番大変なのは「初稿」を仕上げるまで。まっさらなゼロの状態から書いては消し、書いては消しを繰り返して、初稿に辿り着く。この作業をしているときが精神的にきつい。語彙の乏しさ、視点の凡庸さ、展開の無さ。期待値にはとうてい及ばないクオリティの文章に、自尊心がジリジリと焼かれる。

 ただ、期待されているという前提自体が間違っているとも思う。世の中はコンテンツに溢れていて、わたしたちが新記事を出しても出さなくても、ほとんどの市民は気づかない。だから「期待値」と言えどもそれは読者からの期待ではなく、自分が自分にしている期待でしかない。自分はもっと面白いことが書けるはずだと信じているのだ。だから肩に力が入ってしまう。

 執筆を少しでも前に進めたいなら、駄文を受け入れないといけない。今この瞬間に生み出した言葉がどんなに退屈でも、二稿・三稿を手がける未来の自分がもっと素敵な言葉に置き換えてくれることを信じて、耐えないといけない。ライティングには、そういう自己効力感(自分なら何とかするだろうという自信)が必要なのだ。

発信はチャンスか、リスク

 ここからは書けない要因の二つ目。
 入門者は恐れ知らずだ。勝手を知らないからこそ大胆にもなれる。知識がつき、経験を重ねると、迷いも増える。例えば、ジェンダー領域のことを綴るにしても、何も知らない頃のほうがつらつらと書けていた。どういう潮流があって、権威は誰でといった業界地図を手に入れてしまうと、もうだめだ。「わたしなんかに書けることはない」と筆を置いてしまう。

「自分が書く必然性」なんていうと自己陶酔がすぎるが、わたしなんかが、と萎縮してしまうときは決まって専門知に頼りたくなる。専門家でない自分が何かを言うことにためらいを感じるのはなぜか。間違えることを恐れているからだ。間違えるというのは「誤答」という意味合いに加えて「不適切」であること。時代の選好性を汲み取れず、批判されるのが怖い。だから専門知という〝正解〟に頼りたくなる。

 Q by Livesense は、個人が前面に出ているメディアだ。トップページでも記事ページでも、タイトルと著者名をセットにして提示している。そこには個人を目立たせたいという意図があったわけではなく、このメディアをやる上での必要条件だった。Q by Livesense で扱うのは、会社としての総意や結論ではなく、その手前にある迷いや葛藤。だからこそ会社の中の個人をドメインにする必要があった。誰が書いているかわからない一人称の文章は、読み手にとっても居心地が悪い。

 数年前と今とでは、発信者をとりまく空気感はちがって感じる。以前は、発信がチャンスを生む機運があった。職業としてのユーチューバーやインスタグラマーが一世を風靡し「好きを仕事にしよう」「発信力を鍛えよう」「ギブする人になろう」といった言葉が、人々の何者かになりたい願望をくすぐっていた。
 今はどうか。「好きを仕事に」は劣勢になり、俯瞰者のような態度が好まれるようになった。今度は斜に構えたり皮肉ったりすることで、優勢でいたい人々が願望を満たしているのかもしれない。

 それもあってか「発信はチャンス」ではなく「発信はリスク」の側面が強くなってきた。著名人や企業が不適切な発言により表舞台から排除されることを「キャンセルカルチャー」というが、その動きは苛烈になるばかり。SNSで意見を表明する方法は、力を持たざる者が権力側へ抗議する方法として有用なので、必ずしも言論の封じ込めだとは思わない。ただ、そういう論争が日々行われている場に足を踏み入れていると思うと、腰がひける。
 最近は旧ツイッターが様相を変え、みんな安全などこかを探して彷徨っている。インフルエンサーたちも、発言の場をメルマガや会員制サイトなど、クローズドな場所に粛々と移動させている。

 人それぞれ持ち合わせている「正しさ」はちがう。発信は、仲間を呼ぶが、ちがう考えの人たちも呼んでしまう。意見のちがいそのものは問題ではないが、ネット上に並ぶ敵意に満ちた言葉はどれも鋭利で、まともに受け止めると心がやられてしまう。そのような時代にあって発信するのなら、発信力以上に防御力が必要だと感じてしまう。

アンパンマンと人文学は共存できるか

 書けない要因の三つ目。これは愚痴レベルの話かもしれないが、プライベートの生活様式がこの数年で激変したこともライティングに影響しているように思う。一人で寂しくも自由に暮らしていた数年前と、家族ができて和気あいあいと不自由に暮らしている今。「時間がない」というのはあまりに常套句じみているのでことさら挙げないが、親になってインプットの質がガラリと変化したことは特筆に値するだろう。

 手にとる雑誌は、ワイヤードからたまひよになった。家のBGMは、ジャズから童謡になった。コンテンポラリーに揃えたインテリアにはアンパンマンが守護神のように鎮座し、入浴はリラクゼーションから緊張の伴うタスクに変わった。休日は、映画館の代わりにショッピングモールへと向かう。

 インスピレーションの仕入れ先がことごとく変わってしまったのだ。頻繁に会う友人も、そこで繰り広げられる会話も、昔とはまったくの別物だ。以前は、ライター仲間とお酒を飲みながら考えをぶつけ合い、それが記事の入り口になることもよくあった。家に帰ったあとも人格が地続きなので、そのまま執筆モードに入れる。今は外で興味深い話を聞いても、帰宅すると人格が母や妻に切り替わるので、鉄を熱いうちに打てない。

 誤解がないよう記しておくと、昔も今も幸せであることに変わりはない。ちがう形の幸せを生きているだけ。それに、生活様式の変化はデメリットばかりではない。見えるようになった世界もたくさんある。母乳育児ワーカーの葛藤の記事は、育児当事者にならなければ書きえなかったし、街で赤ちゃんが視界に入るとオキシトシンが溢れてくる身体に変えられてしまったのは幸福なことだ。

 ただ、生命力に満ちた「身体」寄りの生活を送りながら「言葉」寄りの仕事をするためにはギアチェンジが必要だ。そのレバーが重い。ライティングも筋トレと一緒だと言っていた昔の自分の言葉を思い出す。「書く筋肉を鍛えたいなら、使うしかないよ」と聞こえてくる。

書けない状態から抜け出すために

 書けない、書けないと嘆いてきたが、どうしたら書けるようになるか。「書けない」を巡って右往左往するなかで、わたしは二つの処方箋にたどり着いた。一つは、とにかく素材を集めること。もう一つは、ライティングをコントロールしようという発想そのものを手放すこと。

 まずは、素材を集める。書けないときは、書きたいことがわかっていない。何を書けばいいかわかっていない。そういうときはインプットに徹する。言葉のシャワーを浴びる。インタビュー、書籍、ネットニュース、なんでもいい。たくさんの情報に触れるうちに、共感なり違和感なり、自分のなかに思いが芽生える。その思いを編む。

 じたばたする最中、いろいろな本を手に取った。『さみしい夜にはペンを持て』『ライティングの哲学』『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』『〆切本』など……。
 なかでも『自分の「声」で書く技術』はよかった。目から鱗がポロポロ落ちた。本書は、マサチューセッツ大学 名誉教授のピーター・エルボウ氏による『Writing Without Teachers』を邦訳したもの。一九七三年の初版以来、英語圏では古典的名著になっているという。二つ目の処方箋、ライティングをコントロールしようとしないというアイデアはここから得た。

 エルボウ氏は「フリーライティング(Freewriting)」という方法を提唱している。具体的な方法は本書をお読みいただければと思うが、彼の方法論は平たくいうと、たくさん書いて、たくさん捨てる方法だ。

 文章を書くプロセスを思い浮かべてみてほしい。多くの場合、書き出す前に書くことを決めようとするのではないか。効率的に執筆を進めるために、構成案を作り、チャプターごとの展開を決める。混沌に迷い込まないよう、要旨が曖昧な状態で書き始めることはしない。エルボウ氏は、この考えこそが敵だと指摘する。

 言いたいことを自分でも掴めていないうちから書き始め、言葉が進化していくのを促そうと彼は言う。言いたいことは初めからわかっているのではなく、終わったときにわかるのだと。つまり、ライティングはメッセージを伝える手段ではなく、メッセージを育てる手段。書き始めたときには思いもよらなかった思考に辿り着くための手段なのだという。
 たくさん書き、たくさん捨てるというプロセスは、一見すると非効率に思えるが、実はこの方法こそが効率がいいというのが彼の主張だ。

 書こう、書こうとして構成案をいじくり倒していたわたしはハッとした。これまでの書き物を振り返っても、初めに思い描いたプラン通りに進んだ長文記事はほとんどない。全体像が見えていなくても、書き始めてしまえば生み出した言葉から別のひらめきが呼び起こされる。一文目が二文目を、二文目が三文目を連れてくる。

 それから、捨てることを前提にしたアプローチでは、駄文に寛大になれるというマインド面の利点もある。書くときには二人の人格が現れる。ゼロから言葉を生み出す「ライターモード」の自分と、できた文章を改善しようとする「編集者モード」の自分。執筆が前に進まない理由は、編集者モードの自分が幅を利かせているからだ。ライターが一文書くやいなや編集者がダメ出しをするので、文は先に進まず、気持ちも落ち込む。しかし、それが捨てる前提で書かれた言葉なら、編集者モードの厳しい追及から逃れられる。

それでも書くことを諦めないのはなぜか

 さて、ここまで散々と書けないことを嘆いてきたが、愚痴をこぼしても誰かが代わりに書いてくれるわけではない。それこそ今は生成AIがホットだが、生成AIに筆を任せれば問題は解決されるのだろうか。いや、ちがう。文章を完成させることがゴールなのではない。書く喜びを取り戻したいのだ。「書けない」の根っこには「書きたい」という願いがある。

 書くのはつらいだけでない。これだけ御託を並べながらも、なお書くことにこだわるのは、考えることをやめたくないからだと思う。言葉はバトン。他者とつながったり、未来の自分に作用したりする。この言葉に救われた、という経験がある人も少なくないだろう。書くことは孤独な作業だが、孤独の先には共鳴してくれる人が現れたり、絆が生まれたりする。わたしがいくつかの書籍から気づきを得たように、今度は Q by Livesense で綴られたことが誰かのインスピレーションになるかもしれない。

 言葉は人を励ましもするし、傷つけもする。つながりを生めば、対立を深めることもある。可能性とリスク、素晴らしさと難しさ。書くことの二面性を抱えながら、見つめながら、それでも言葉の力を信じて、書けない原稿に対峙していく。少なくとも、書き続けていればそのうち書ける。それがわかったのが今回の収穫だ。

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