2023.09.21

母乳育児ワーカーの知られざる苦闘を語りたい

「三カ月で戻ってきますから」

 そう告げて、わたしは出産のため休みをとった。フリーランスなので育休手当が出ないという事情があったし、キャリアの断絶も恐ろしかった。そういう不安から、最低限身体を休めたらすぐに戻ろうと決めていた。

 妊娠中に保育園の見学と申し込みを済ませ、レギュラーの仕事に関しては不在にする三カ月分の原稿を先出しし、産後のポストを確保した。身重ながらなかなか周到に備えられたように思えた。そして予告通り、産後三カ月でまた仕事を始めた。

 しかし、今はこう思う。「一年の産休・育休は理にかなっている」と。一つ誤算があったのだ。というか、考慮できていないことがあった。母乳育児の労力だ。母乳育児をしながら働くことがこんなにしんどいとは。

 あなたの周囲に母乳育児をしながら働いている人はいるだろうか。ほとんどの人はこう思うだろう。「知らない」。それだけ母乳の話は表に出てこない。恥ずかしいし、タブーな気がする。でも実は、出産から一年半未満で復帰した女性の約半数が、復帰後も母乳育児を継続している

 オープンに語るのは憚られるテーマかもしれない。ただ、思えば「生理」だって少し前まではそうだった。それがSNSでオープンに語られるようになったことで周囲の理解が進み、つらさを肯定できる人が増えたように思う。当事者として勇気をもらう潮流だった。だからこそ今回、母乳育児※1と職場復帰について書いてみようと思う。

※1 ここでは「母乳のみの授乳」と「母乳とミルクの混合栄養での授乳」のことをいう

おっぱいに振り回される新生活

 授乳? 本能がどうにかしてくれるでしょ。産む前はそう思っていた。だが産んでわかったのは、授乳は鍛錬の上に成り立っているということ。まずは母乳の基本情報からお届けしたい。

 おむつ替え、沐浴、寝かしつけ。親になると、育児のすべてがレベルゼロからのスタートだが、中でも予想以上に大変だったのは、ダントツで授乳だった。おむつ替えも沐浴も、数をこなせばスキルがついてくるのだが、授乳はスキルの成せる技ではない。努力でなんとかなる部分はあっても、体質によるところも大きい。自分が「出る人」なのか「出ない人」なのか、やってみるまでわからないのが不便なところだが、「出る人」であっても初期には相応のコミットが必要だ。

 最初の山は、出産直後。妊娠中のホルモンバランスから授乳仕様のホルモンバランスへと移行させなければ、母乳は出てこない。そのため、出産後すぐから赤ちゃんに吸わせたりマッサージしたりして、母乳分泌のスイッチをオンにする。通常は出産から五、六日で退院となるが、その時点で母乳は申し訳程度しか出ないことも多い。助産師から「とにかく頻回授乳。欲しがるだけ吸わせてね」と釘を刺されて帰宅する。

 母乳で育てたいなら「子育て」と並行して「乳育て」をしないといけないのだ。おっぱいは学習型の器官で、飲まれた分だけ分泌されるようになる(と産院で習った)。かくして「子ども中心」でありながら「おっぱい中心」でもある新生活が始まる。

 授乳初期のおっぱいは荒くれ者だ。自分の身体なのに、こちらの意思をまるで汲み取ってくれない。全然出なかったり、出すぎたり、詰まってしこりができたり、熱や痛みを帯びたり。そこに、お腹を空かせて荒ぶる赤子が参戦する。授乳というのは、母・子・おっぱいの三つ巴の戦いなのだ。

 低月齢のうちは、二、三時間おきに授乳すると聞いたことがある人は多いと思う。実はこれは、必ずしも子どもが二、三時間おきにお腹を空かせて泣くという意味ではない。それ以上開けると、胸がガチガチになり乳腺炎のリスクが高まるという母体側の事情なのだ。個人差はあるだろうが、子が寝てくれていたとしても、数時間おきに子を起こして飲んでもらうか搾乳をして、ガス抜きをしなければいけない。

 わたしも初めの数カ月は、おっぱいのことばかり考えていた。まるで、三時間の時限爆弾が両胸についているようだった。一回の授乳が終わると、次の爆発まで二時間四〇分……。爆発の時間を考慮してすべてのスケジュールを組む。図らずも、わたしも子もぐっすりと六時間連続で寝てしまった日には、起きたときの胸は岩と化していて、しこりが取れず母乳外来コースだった。母乳育児をするなら、初めの数カ月はぶつ切りの睡眠を受け入れるしかない。夫が育児休業をとっていても、母乳ばかりは分担できず、何度も心が折れかけた。

 そんな修羅道をくぐり抜けてようやく出るようになった母乳。やっと安定したと思ったら、もう仕事復帰は目前に迫っていた。

保育園と乳腺炎

 早期に復帰するということは、この生活に「労働」がアドオンされるということ。三つ巴どころか、四つ巴になるのだ。同時に、やっと安定してきた母乳サイクルが乱れることを意味した。

 復帰するなら、基本的に子は保育園に預けることになる。母乳育児をしていると「母乳どうしよう」が真っ先に浮かぶのではないか。
 職場復帰のタイミングでおっぱいトラブルを起こす人は少なくない。それまで数時間ごとに飲まれていた母乳が行き場を無くし「乳腺炎」のリスクが高まるのだ。乳腺炎とは、母乳を作る乳腺に炎症を起こしている状態。母乳が乳腺に溜まりすぎて起こる「うっ滞性乳腺炎」と、細菌感染による「化膿性乳腺炎」とがあるが、乳腺炎になったらもう仕事どころではない。

 わたしも、保育園が始まり授乳サイクルが変わったことで週に何度もしこりができ、痛みで母乳外来に駆け込んだり、保育園へ早く迎えに行ったり、おっぱいに振り回される期間が三カ月ほど続いた。搾乳して、母乳が溜まりすぎないよう気をつけていたが、搾乳も万能なわけではなく※2、乳腺炎は容赦なく牙をむいてきた。

※2 細かすぎて伝わらないかもしれないが、乳房には複数の乳管があり、子がよく吸っていた乳管と、搾乳でよくとれる乳管がちがうなどで、搾乳をしても溜まった母乳を出しきれないことがよくあった

 歯が痛いときに仕事に集中できないような感覚だ。これは大丈夫な痛みか、放っておいてはダメな痛みか。行くとしたら、今あいているクリニックはどこか。そんなことを日々考えるので、脳のメモリはだいぶそいつに食われてしまう。子のための「慣らし保育」という期間があるが、同じようにおっぱいにも慣らし期間が必要だと感じた。

 保育園といえば、子の哺乳を新しい環境へと順応させるのにも骨が折れる。社内でヒアリングをしていたときも、二児の母Aさんが「育休中は母乳がメインだったが、保育園に入るときに、超苦労しながらも混合にした」と話していた。

 保育園での哺乳は、基本的にミルクが中心。冷凍母乳を受け入れている園もあるが、ミルクが飲めないと何かと大変だ。仕事復帰とともに断乳を考えていたとしても、「ミルクは嫌」「哺乳瓶は嫌」などと子によって好き嫌いが出てきて、おっぱいへの執着が増す子もいる。母の体質、子の特性、保育園の方針など、アンコントローラブルな要素が多すぎて、復帰後の母乳の行く末を見通せないのも難儀だった。

どこで搾乳をするか問題

 ちなみに、わたしが母乳育児ワーカーをしてみて思ったのは「リモートワーク以外、無理」だ。出社の必要な仕事だったら、さらにカオスな毎日だっただろう。

 リモートワークのありがたみを感じるのは「搾乳」のタイミングだ。先ほどから何度か登場する搾乳。なじみがない人が多いと思うが、母乳を自分で出すこの行為は、母乳経験者にとっては日常だ。今は便利な時代で、手絞りを助けるツールはもちろん、下着に挟んでハンズフリーで搾乳できる電動搾乳器まで売られている。

 ただ、これを自宅以外の場所で毎日続けるとなると負担が大きい。搾乳器を装着して、搾乳して、とれた母乳を保存用パウチに入れて、機器を洗って消毒して……。一連の作業に、どれだけ急いでも二〇分はかかるし、スポンジだの消毒器だのいろいろな用具が必要だ。

「ただでさえ時短勤務なのに、搾乳で業務時間がさらに減ってしまうのが悩ましかったです」

 そう話すのは、十年ほど前に出産をしたBさん。チームの負担を最小限にすべく産後八週間で復帰した。当時は出社が当たり前だった。

「就業中に搾乳することは上長からOKをもらっていましたが、やりくりは大変でした。ミーティングがぎっしり入っている日は搾乳時間を確保できず、胸がパンパンになり、痛みに耐えながら仕事することもよくありました」

 Bさんは、すきま時間を見つけてはトイレで搾乳していたという。前出のAさんも経験者で「トイレでナプキンに搾乳していたけど、誰にも言えなかった」と話してくれた。

 実は、トイレでの搾乳は珍しくない。母乳を継続しながら仕事復帰をした人の約六割は、トイレで搾乳をしていたという調査もある。わたしも外出先で搾乳するときはよくトイレを使ったが、衛生上の不安があり、せっかくとれた母乳を捨てざるをえないのが悲しかった。

 ちなみに米国では、一定規模以上の企業に搾乳のための時間と(トイレ以外の)場所を設けることを法律で義務付けている。搾乳に要した時間を労働で補填することを要求しないようにとも添えられている。違反に罰則を設けている州もある。

 米国で搾乳サポートが手厚いのは、米国には日本ほどの充実した育休制度がないからだろう。米国では十二週間の産休・育休は取得できるが、無給だ。取得にはやや厳しい条件があることから約四割の労働者は取得できておらず、経済的な事情から数週間で復帰する女性も珍しくない。

 それと比べれば、有給で一年休める日本は恵まれていると思うかもしれない。でもそれは、雇用保険に加入している人だけだ。雇用保険に加入していないパート・アルバイト労働者やフリーランス、それから正社員でも加入期間が一年に満たなければ対象外だ。それに、日本でも働きながら母乳育児をする人の割合は増えている。安心して搾乳できる場所は、日本にだって必要だ。

それでも母乳育児をするのはなぜ?

 そんなに母乳育児が大変なら、母乳をやめるか、早期復帰をやめればいいのでは? そう思う人もいるだろう。早期復帰を決めているなら、初めからミルクにすればいい。合理的に考えればその意見はもっともだが、そう割り切れない背景には、妊産婦への母乳育児の啓蒙がある。

 妊娠も後期になってくると、両親学級で母乳のことを教わったり、病院で助産師に乳頭マッサージをするよう言われたりして、母乳への意識が高まるような設計になっている。実際、厚生労働省の調査では、妊娠中に九三%の人が「母乳で育てたい※3」と考えていた。

 女性の就業率が高まる昨今、順当に考えるとミルクを活用する人の割合も増えそうだが、実は傾向としては真逆になっている。産後一年以内に働いていた人でも、母乳育児を選ぶ割合は著しく伸びているのだ※4

※3「ぜひ母乳で育てたいと思った」「母乳が出れば母乳で育てたいと思った」を足し合わせたもの
※4 産後一年以内に働いていた人のうち、二〇〇五年は「母乳栄養(いわゆる完全母乳)」が二六・七%、「混合栄養」が四七・二%だったが、十年後の二〇一五年には「母乳栄養」が四九・三%、「混合栄養」が三五・八%となり、「母乳栄養」は二二・六ポイント増えた

 母乳育児を継続したい人がそれを続けられるようになったといえば、ポジティブに聞こえる。しかし、母乳育児推進のプレッシャーもあるのではないかと思う。世には母乳の良さが至るところに流布されていて、母たちは母乳が優位、ミルクは劣位だという無言の圧力に晒されている。

 子を連れて外に出ると、見知らぬシニア女性に「かわいいわね」と話しかけられ、二言目には「母乳出てるの?」と尋ねられるのは経験者あるあるかもしれない。
 それに巷には「母乳で育った子のほうが〇〇」といった言説が溢れている。〇〇には、病気になりにくいとか、肥満になりにくいとか、知能の発達にいいなど多様なものが入るが、真偽不明なものも多く、極端な考え方は「母乳神話」と呼ばれている。

 わたしも出産前は母乳神話に惑わされず、自分の生活に合う方法を選びたいと思っていた。母乳はあげてみたいが、夫と育児分担をしやすくするためミルクも活用しようと思っていた。
 だが、産んでみると「母乳を出す」がわたしに課せられたミッションのように感じるようになり、母乳量が増えるよう自然に努力している自分がいた。出ないなら出ないでミルクをあげればいいと頭では理解していても、子が泣いている状況で「出ない」のは、産後の豆腐メンタルにはきつい。正解のわからない新生児育児において、少なくとも「母乳を出す」ことは明快な正解に思えた。
 他にも、粉ミルクのパッケージには「母乳は赤ちゃんに最良の栄養です」と書かれており※5、ミルクを作るときに毎回責められている気持ちになるのもきつかった。

 母乳に、ミルクにはないメリットがあることは理解している。だが、ミルクにもメリットはある。今となっては、母乳を出さなければと躍起になって困憊するくらいなら、肩の力を抜いてミルクの力を借りればよかったと思う。どちらを選んでも子への愛が変わるわけではないのだから。

※5 調べてわかったのだが、「母乳は赤ちゃんに最良の栄養です」の表記は、WHOなどによる国際的な規格により定められている。「母乳代替品の宣伝・広告をしてはいけない」という規制もある。粉ミルクのマーケティングが規制されるようになった背景には、途上国で粉ミルクが広まった際に、不衛生な水で作られたミルクや規定以上に薄めたミルクを飲んだ赤ちゃんが、栄養失調になったり亡くなったりする事態が発生したことが影響している

孤軍奮闘する母乳育児ワーカー

 はじめに「一年の産休・育休は理にかなっている」と書いたが、この記事を通して「休みは長く取るべし」と言いたいのではない。母乳、ミルク、どちらかを推奨したいわけでもない。生理痛がある人に「なぜピルを飲まないのか」と迫るのが粗野な行為であるように、「なぜミルク(母乳)にしないのだ」というのも他人が干渉することではない。身体のことは、自分に決定権がある。

 この記事では、本当はあちこちにいるはずなのに、まったく存在の見えない母乳育児ワーカーの現状を知ってもらいたかった。Aさんは言う。

「母乳育児の悩みやハウツーって、生理の何倍も職場でオープンに話されにくい気がします。同世代の友達にも、親戚にも、職場にも、母乳育児をしているワーキングマザーはいなかったので、周囲には相談できる人がいませんでした」

 母乳育児は大変だが、永遠に続くわけではない。期間限定のマイノリティというのも、当事者が「今だけがんばればいい」と耐え忍ぶ要因になっているのかもしれない。ただでさえ子育てワーカーは周囲の協力を仰ぐことになりやすい。すでに肩身の狭い思いをしている人が、さらなる要求はしづらいものだ。

 昨今、子育ての自己責任化が進む世の中では、母乳育児も「自分で選択したことだから」と、個人が負担を引き受けることが当たり前になっている。当事者にも引き受け癖がついているのかもしれない。でも、その負担は分かち合えないのだろうか。

 子を産んでも仕事を続ける女性は増えている。そして、仕事復帰する人の約半数は母乳育児を続けている。この数字だけ見れば、フレキシブルな社会のようにも見える。けれど現状は、職場復帰にあたっての母乳育児のガイドラインはなく、当事者をサポートする法律もない※6。社会の受け皿が変わったのではなく、母たちの〝任意の〟努力で成り立っているだけだ。

※6 労働基準法には、一歳未満の子どもを育てている女性が一日二回、三〇分ずつ「育児時間」を企業に求めることができる制度はある。しかしこれは、百年ほど前の労働環境に合わせて作られたもので、現代の搾乳・授乳ニーズに応えるには内容のアップデートが求められる

 早期に復帰する。一年以上休む。仕事をやめる。母乳で育てる。ミルクで育てる。どんな選択をしても、もしかしたら不安や罪悪感は付きまとうのかもしれない。何かを選ぶということは、何かを諦めるということ。妥協しなければいけない場面もあるだろう。それでも、社会はもっと柔軟になる余地があると思う。困難を分かち合う第一歩として、透明だった存在を可視化することから始めたい。

執筆 ニシブマリエ

白黒つけようとせず、複雑なものを複雑なままに。そんなスタンスを大切に、ジェンダーや社会的マイノリティを中心に取材・執筆している。リブセンスでは広報を経て、Q by Livesense 編集長に。最近、親になりました。