職場から怒りが消えつつある。
ドラマや漫画の描写の影響か、実際にそういう人が多かったのか、むかしの上司はよく怒っている印象を持っていた。灰皿を投げつける、というのはあまりに古典的だとしても、大声で怒鳴り散らしたり、机の前に立たせて説教したり、その机を音を立てて叩いたりするのは、怒る上司の典型的な表現だった。
でも現実にはそういう人を、ぼくはほとんど見かけない。世の中全体からいなくなったとまでは思わないけれど、少なくともリブセンスや周囲の会社では、派手に怒りを振りまく上司像というのはあまりイメージできない。
とうぜん怒りという感情それ自体がなくなったわけではない。滲み出ていることはあるだろう。ただ多くの人たちは、それをあからさまに表に出すのをやめた。
要因はいくつも思い当たる。会社が従業員の精神的健康にも注意を払うようになったこと。心理的安全性が組織のパフォーマンスを向上させると発見されたこと。パワーハラスメントが問題視され、パワハラ防止法が制定されるまでになったこと。人材の流動性が高まり、上司に不満がある人はすぐに転職できるようになったこと。
強い口調で威圧的に振る舞うマネージャーは過去のものになり、職場環境は改善された。
しかし、つい先ほど書いたことを繰り返すけれど、怒りという感情自体がなくなったわけではない。
マネージャーのAさんにヒアリングをした。
部下が同じミスを繰り返したときや、そういうミスで社外に失礼を働いたときに、苛立ちを抱いてしまうという。
Aさんも振る舞いには気をつけている。面と向かって怒ったりはしないし、感情をそのままぶつけたりはしない。
「苛立ちが伝わらないように気をつけてます。すぐに反応するのではなく、一拍置くようにして。自分を冷静に捉えてから、相手に寄り添った言い方をするようにしています」
Aさんは怒りをそのままぶつけるべきでないことを知っている。どう伝えるべきか、どう指導するのがよいのか。学び、試行錯誤し、悩んでいるようだった。
でも表に出さないからといって、苛立ちがなくなるわけではない。表出されなかった怒りはどこにいくのか。
「そのときは自分の心の中にしまっておいて、夜振り返ることが多いです。もやもやし続けちゃうこともありますね。感情をなくすことは難しいです。人間ですから」
わたしたちは、沸き立ってしまう苛立ちや憤りをどう扱うべきだろうか。今日はこの「怒り」という厄介な感情について考えてみたい。
まずはその前段として、感情全般について見ていこう。
わたしたちは感情をコントロールするべきか
残念ながら今日の社会において、感情はあまりいい待遇を受けていない。
会社の会議に代表される公的なシーンで、感情を伴う振る舞いが歓迎されることは少なく、「感情的になっちゃった」「あの人は感情的だよね」というフレーズは、否定的なイメージを伴って用いられている。
感情に衝き動かされた行動は、子供っぽい人や自分自身をコントロールできない人として印象づけられ、理性の欠落した姿として扱われている。
主張や振る舞いは、論理的・合理的・理性的に行われるべきで、その際に感情を交えるべきではない。それがおおよその社会の合意だろう。会社のように集団的意思決定を重ねる場であれば、なおさらその傾向が強くなる。今や家庭でもそうなりつつあるかもしれない。
人々は感情をある程度抑えることで、建設的な議論を可能にしているともいえる。それにより、議論や合意形成はいくぶんスムーズになっているようだ。
感情の抑制は社会活動を円滑にするだけでなく、当人にとっても利益をもたらす。
感情に任せた行動を、のちのちになって後悔するという経験に思い当たる人は多いだろう。喜びのあまり浮かれ続けたり、怒りをその場その場で発散することが、かならずしも当人にとっていい結果をもたらすとは限らない。
怒りの表出が中毒のようになる人もいる。怒りを示すことはしばしば、その人自身に恍惚感や優越感をもたらす。一部の人たちは自分を威圧的に見せるために、またその悦楽を得るために怒りを表出する。
そういう人たちは実のところ、実際に怒りの感情を感じていないことさえある。怒りっぽいキャラクターを演出することで、この感情の利権を手にしている。かわりに周囲の尊敬を遠ざけ、自分のほんとうの感情を見失ってしまうにも関わらず。
感情を抑制することによって、こうしたリスクから距離を取ることができる。わたしたちは社会生活を送る上で、他者のためにも自分のためにも感情をコントロールしている。
感情が心のうちに現出したときに、自らその感情を認知し、能動的に対処を講じることを「感情制御」と呼ぶ。
たとえばなにか仕事で嫌なことがあったとすると、その否定的な感情を低減させるために取る行動は、感情制御の一種である。
晩ごはんにちょっと贅沢をしていいものを食べるとか、気晴らしにゲームで遊ぶとか、顛末を誰かに話すとか。そういう方策によって、否定的な感情をいくぶん減じることができる。
感情制御のなかには身体的な行動を伴わないものもある。たとえば「ピンチはチャンス」という有名なリフレーミングのフレーズも、感情制御の一つである。差し迫った危機的状況に対し、ネガティブな感情を抱いてしまうところを、考え方の転換によってポジティブなイメージに変化させている。
感情制御のなかでも、感情の発露を抑えることを「表出抑制」と呼ぶ。Aさんが部下のミスに対して、その場で怒りを表明しなかったこともこの表出抑制にあたる。
感情制御は人が社会的生活を送る上で必要不可欠なものでもあるから、表出抑制もまたいたるところで推奨されてきた。
家庭で、学校で、職場で。ときに明示され、ときに暗示される形で、多くの人が表出抑制の指導を受けてきたことだろう。特に子供への指導では顕著である。
ここまで見てきたように、感情制御は人にとって必要不可欠な振る舞いであり、本人にも周囲にも一定の利をもたらす。それ自体は悪いことではない。
しかし社会が理性的なコミュニケーションを推奨し、感情を余計なものとみなすあまり、わたしたちは過剰に感情を抑制していないだろうか。
感情の抑制は適切な範囲で行われているだろうか。「感情的」という言葉に、否定的なニュアンスを持たせてしまっていいのだろうか。職場における(特にネガティブな)感情の表出は、過剰に忌避されていないだろうか。感情の表出を圧殺することは、果たして人間の健全なあり方なのだろうか。
ここからはさらに一歩踏み込んで、怒りを過剰に抑制する人たちに何が起こってしまうかを見ていきたい。
「怒らない人たち」が失ったもの
怒っているところを見たことがない、怒っている想像もつかないという人たちがいる。そういう人たちは温厚で優しく、多くの人に好かれ、はたから見れば理想的な人格者に見える。
もしくはAさんのように怒りを感じつつも、感情のやり場に困っているというマネージャーもいるだろう。
怒りは感情のなかでも、特に扱いが難しい。人に危害を加えてしまうこともあるし、後悔にも発展しやすい。怒りは時間や労力やエネルギーも消費する。怒ることは自分にとって損であり、感じるべき感情ではないと考えている人もいる。
しかし怒りを回避する人たちもまた問題を抱えていると看取したのが、米精神療法家のポッターエフロン夫妻である。二人によれば怒りは、誰にでも生じるものであり、それ自体悪いものではなく、またむやみに忌避すべきものではない。
怒りは何か重大な問題が起きていることを知らせるシグナルであり、その時に生じるパワーはその問題を解決するための活力を与えてくれる。二人はそう考える。
逆に怒りを回避する人たちは必要以上に怒りを恐れ、悪いものであるとみなすことで、以下の五つの問題を抱えてしまっているという。
一 欲しいものを手に入れられないこと
怒りは欲しいものを手に入れられていないことを教えてくれる感情である。怒りを回避する人は、自分の声を失っている。
二 あなたの一部を失うこと
握り拳を作らないですむ解決法とは、自らの手を切り落としてしまうことである。怒りを回避する人は、自分の大事な部分を壊し、その部分を欠いている。
三 怒りを自分に向けること
怒りを回避する人の中には、自虐的な人がいる。本当は他の人に向けるはずの怒りで、何度も何度も自分を罰している。
四 うつと身体的な病気
怒り回避をする人はしばしば、身体的あるいは感情的な病気を発症する。うつになるのは、彼らが助けも希望もないと感じてしまうからである。
五 詰め込みと爆発
内側の深いところに何ヶ月も詰め込まれた怒りは、すべてのものを取り戻そうとして、激怒(非合理で大仰で危険な激怒)として表れることがある。
また怒りを回避する人たちは、しばしば他者の怒りも許すことができない。誰かが怒りを表明した瞬間に、それを直視し話し合うことから逃げてしまう。
ポッターエフロン夫妻はこのように怒りを回避することの問題点と、怒りの役割を述べた上で、「怒りの気持ちを持つことは普通のことで人間的なこと」だと述べている。
むろん状況を考えずに当たり散らすことを薦めているわけではない。机を叩いて大声で罵ることを薦めているわけでもない。怒りという感情の役割を無視し、怒りをタブー視するべきではないということだ。
反射的に行動するのでもなく、ただ押し殺すのでもない。わたしたちはどのように怒りを扱うべきだろうか。
怒りの表明はいかに為されるべきか
Aさんはまさに感情制御をしながらマネジメントに取り組んでいたが、ときに苛立ちが伝わってしまい、メンバーから謝罪を受けることもあった。
「謝られると自己嫌悪に陥るんですよね。謝らせちゃったな。怖いと思われてないかなって」
マネージャーのような立場では、怒りを表明することは余計に躊躇われるだろう。
わたしたちはどのように怒りを扱えばいいのだろうか。これまでの内容をもとに考えたい。
第一に確認したいのは、怒りを抱くこと自体を問題視すべきでないということだ。怒りは自分にとって重大な問題が起きていることを知らせ、理性よりも素早く、直観的に問題を察知することができる。喜びや悲しみと同じように、基礎的で重要な感情の一つである。
メンバーが同じミスを繰り返し犯したとき、同じ人が会議に何度も遅刻するとき、自分の発言や仕事が軽視されたとき、思うように物事が進まないとき。そうしたときに怒り、憤り、苛立ちを抱くのは人間として普通のことであり、いかなる立場にある人であっても、そういう感情は自然に湧き立つものである。
自分に対してであれ、他者に対してであれ、怒りを感じることそのものを否定すべきでない。それは人間性の否定につながる。
第二に怒りの表出のすべてを封殺すべきでない。怒りを適切に表出しなければ、それは内側に溜まって自身の精神を蝕んだり、蓄積された憤怒や相手の嫌悪にまで発展する恐れがある。
怒りを表出することはたしかに難しい。不用意に発すれば、人を傷つけたり、怖がらせたり、チームの心理的安全性を破壊したりしてしまう危険性もある。しかしそれを恐れるあまり、誰もが波風を立てないように動き、否定的な感情を押し殺して働いているとしたら、そんなチームのどこに心理的な安全があるだろうか。
怒鳴ったり机を叩いたりしなくても、怒りを伝えることはできる。
米心理学者のアンドリュー・ソルターは、人間は本来もっと活動的に振る舞うはずなのに子供のころの躾により抑制的になっていると見て、アサーション(自己主張)の必要性を説いた。
アサーションとは自分も相手も尊重した上で行われる自己主張をいう。相手の人格や立場を尊重しない一方的な自己主張であってはならないし、逆に相手を尊重するあまり自分の主張を抑え込んでしまってもいけない。
人は怒りを適切に表明することで、周囲に対してことの深刻さを伝え、自分の大切なもの、重要なものを守ることができる。そのとき怒りは、人を傷つけるためではなく、問題を解決するために機能する。
何に怒りを感じているか、どこからその怒りが来たのかを明確にできれば、伝えた相手にも問題解決の手助けができるだろう。
怒りを伝えるときは、威嚇したり、陰険な振る舞いによって間接的に伝えたり、怒りを爆発させたりしない方がいい。それは相手を傷つけるだけでなく、自分の怒りから目を逸らすものである。
こういう理由により怒りを感じている。こうして欲しいと思っている。それを伝えることができれば、たとえその要望が一〇〇%叶わないとしても、怒りはそれ以上自分を振り回さないはずだ。
怒りの背後には自分が軽く扱われた悲しさや、傷つきが潜んでいることもある。だったら、怒りではなく傷ついてかなしいんだと伝えてもいい。感情を表に出すことは間違ったことでも、恥ずかしいことでもない。
人はもっと自らの感情を、積極的に認めていくべきなのだろう。わたしたちが行うべきは、怒りから目を背けることではなく、怒りを直視し、その正体を見極めることである。
怒りは決して恐れるべきものではない。悪いものでも、遠ざけるべきものでもない。わたしたちが小さい頃から自然に抱いてきた、自分自身の一部なのである。
参考文献
- 村田光二(編), 日本認知心理学会(監) 「『社会と感情 (現代の認知心理学6)』」 北大路書房
- ロナルド T. ポッターエフロン(著), パトリシア S. ポッターエフロン(著), 藤野京子(監訳) 「『アンガーマネジメント 11の方法―怒りを上手に解消しよう』」 金剛出版