2021.12.15

自信は本当に必要なのか。男女のちがいから考える行動と自信の関係

 あなたには自信がありますか。

 こう聞かれたら、あなたはどう答えるだろう。この質問にイエス・ノーで答えられるほど、自信というのは単純な概念ではない。けれど、持っていたほうがいいものと世間では認識されている。生活において、仕事において、自信があるほうが何かと得なことが多い。

 わたしはこの秋、Q by Livesense 編集長の任務を授かった。その裏では、役割を打診されてから腹を決めるまでに三週間という時間を要していた。ありていに言えば、自信がなかったからだ。編集経験が豊富でないこと、前任者の存在感に圧倒されていたこと、業務委託の立場であること。辞退するに見合う理由をいろいろと探していた。けれど同時に「やらなければ」とも思っていた。仲間から差し出された稀有な機会を拒もうものなら、わたしはきっと自分のことを嫌いになる。使命感にも似た感情だった。

 どうしてそのような気持ちが湧いてきたのかといえば、この数カ月、自信というものについて考えてきたからだ。十名以上のリブセンスメンバーにも自信について話を聞かせてもらった。その過程でわかったことがある。自信があるから行動するのではない。行動するから自信がつくのだと。

 この結論に至ってもなお、自信のなさを理由にバトンを受け取ろうとしないのなら、それはもうわたしがわたし自身の人生を面白くする権利を放棄しているに近いと思った。思い切って、編集長ポストに飛び込んでみることにした。

 出だしから個人的なことを書いてしまったが、自信というのは、人ひとりの人生を翻弄しうるほどの影響力を持つ。自信がないと、物事を遠ざけるからだ。それほど重要な概念なのに、自信は天賦の才のように「持つ人にはもともと備わっているもの」とも思われがちだ。けれど、本当にそうなのか。自信を後からつけることはできないのか。いや、そもそも自信は本当に必要なのだろうか。今回はわかるようでわからない、自信というものの正体について考えていきたい。 

自分の能力を過小評価するインポスター症候群

 自信について、はじめに考えたのはジェンダーとの相関だった。一般に、男性より女性のほうが自信がないと言われがちだ。わたしの周囲を見渡しても、秀でた能力に対して控えめな態度をとっている人は女性に多い。

 インポスター症候群という言葉をご存じだろうか。インポスターとは、英語で詐欺師のこと。人を騙しているような感覚を持つことに由来し、客観的に評価されているにもかかわらず、「運がよかっただけ」「周囲がサポートしてくれたから」などと自分自身を過小評価してしまう心理状態のことをいう。インポスター症候群には誰もが陥る可能性があるが、ハイキャリアの人たちにみられやすく、女性や有色人種など、社会的マイノリティに属する人に多いという研究結果もある。アファーマティブ・アクションの対象にされることで、登用されても実力を過小評価してしまうこともあるらしい。

 わたしも自分をインポスター症候群だと認知している。一時期、光が当たるほど「いつかわたしの無力さがバレてしまうのでは」と不安が増し、身動きがとれなくなっていた。SNSのネガティブなコメント一つで一日中落ち込んでしまえるほど、評価に敏感になることもある。

 これがジェンダーに起因するのかといえば、確かなことは言えないが、女性が〝見られる性〟であることは多少作用しているように思う。幼い頃からルッキズムに晒されながら育ってきた女性にとって、身体的な見た目は自信を奪うこともあれば、構築することもある。他者が自分をどう思っているか考え始めたら、いくらでも時間を使えてしまうくらい、評価にはセンシティブになれる。容姿に関していえば、実際には他者からの目以上に、自分自身の強迫観念も大きいだろう。それでも、見た目を褒められたり貶されたりするうちに身についた、自分の価値判断を他者に委ねようとする習性や、自分の価値が容姿にあるかのような思い込みは、手を挙げる、堂々と発言する、批判するといった行動を妨げていると思う。

日常のなかに見る女性の自信のなさ

 聞き込みを行うなかで、あるマネージャーの男性は「女性のほうが、好かれたいと思う傾向にある気がする」と言っていた。好かれたいという欲求が優先されるほど、波紋を呼ぶ意見や大胆な行動は取りづらくなる。また別のマネージャーの女性は、女性の自己評価の低さを指摘した。

 「メンバーのマネジメントをしていても、男性より女性のほうが自己評価が低い傾向にあります。目標に対して、自己評価を辛めにつけてくる。できていることより、できていないことにフォーカスして話す。自分が成し遂げたことを主張しない。女性にはそんな傾向を感じます」

 この傾向を認知したのは、彼女自身が自己評価の低さに気づいたからだという。

 「私の自己評価が低いというか、同期の男性陣の圧倒的な自己評価の高さにびっくりした、というほうが正しいかもしれません。新卒で入社したばかりの頃の話ですが、大した成果も出ていないうちから、なんで『俺はできる』感を出せるの?と率直にびっくりしました(笑)。私がどこで引き気味な振る舞いを身につけたのかはわかりませんが、調子に乗っていると思われたくないという、ある種の自己防衛なのかもしれません」

 日本において、女性は従順で控えめであることが美徳とされてきたが、その価値観は健在のようだ。というのも、ある社員が中学生の娘に「どうして女性は自信がないんだと思う?」と聞くと、こんな答えが返ってきたという。「だって、自信がないって思わせてたほうが女性は有利じゃん」と。女性はか弱くあるほうが男性からの協力を得られやすいのだと。今のティーンエイジャーがわたしの頃とそう変わっていないことに、わたしは肩を落とした。

 自信のなさを感じる背景に、男女比率の影響を挙げる人も少なくなかった。いろいろな団体がよく「女性比率三割」を目標に掲げているが、三割というのは「クリティカルマス(臨界質量)」と呼ばれる経済学用語が根拠になっている。集団の中で少数派が三割を超すと、少数派は少数派でなくなる。組織文化が変わる分岐点なのだという。リブセンスには、職種によって男女の偏在がある。例えば、エンジニアの九割は男性だ。あるエンジニアの女性は、少数派であることで発言しにくいことがあり、自信を持ちづらいのだと話してくれた。

 その他にも、生理という毎月のイベントも自信を持てない一因になっているという意見もあった。計画を立てても体調不良で頓挫したり、情緒の不安定さを自覚したり、物理的に勉強や仕事ができなくなる。わたしも、やらなければならないことを両手いっぱいに抱えているときに生理が来ようものなら「今はやめてくれ」と叫びたくなる。身体的な不調は、確かに成功体験とそこからくる自信を剥奪しているように思えた。

男性は自信がある、は本当なのか?

 この記事を書くにあたって『なぜ女は男のように自信を持てないのか』という書籍を参考にした。そこには、男性と女性で失敗に対する捉え方が違うのだと書かれていた。女性には、物事がうまくいかなかったときには自分を非難して、成功したときには運や他人など、自分以外の何かのおかげだとする傾向があるという。

 本書において、コーネル大学の心理学者デイヴィッド・ダニング氏は、数学の博士課程プログラムを例に挙げていた。そのプログラムは、必ず途中で急激に難しくなる時期があるという。ダニング氏は、そのときの男女の反応の違いに気づいた。男子学生は悪い成績をとっても「うわ、この課程は難しいな」と反応する。これはいわゆる外的帰属(失敗や成功の原因を、外的な事情や環境のせいにすること)で、レジリエンス(回復力)が健康的であることを意味する。他方、女子学生は「やっぱりこの課程でやっていけるほど私は優秀じゃなかった」と内的帰属(自分の性格や能力に原因を求めること)に向き、失敗と捉えて自分を消耗させてしまうという。

 もちろん自信に満ちた女性もいれば、自信のない男性だっているので、例外も多分にあるだろう。ジェンダーと自信について語るとき、多少話を単純化せざるをえないことは本書でも断られていた。

 しかし、本書で前提とされている「男性には自信がある」というテーゼは、さすがに単純化しすぎなのでは。そう思い、明らかに自信満々そうに見える人から、さほど自己主張しないタイプの人まで、複数の男性社員に「自分に自信があると思いますか?」と聞いてみた。「はい」と即答してきた人は一人もいなかった。

 しかし面白かったのは、それに続く言葉が自分にいかに自信がないかの説明ではなく、言うなれば「条件つきで自信がある」といった回答だったこと。いくつか紹介する。

 「自信があるタイプに見られがちですが、自信は全くないです。日々不安と恐怖に苛まれてます。けれど、物事を突き詰め、何が起こるかがすべて想定内になっている状態であれば、自信を持ってコミュニケーションできます。自信は何もしなければないですが、持てるように、情報収集やシミュレーションを日々しています」

 「自分がすごいとは全く思っていないですが、偉い人もそうじゃない人も、人間そう大して変わらないと思っています。適切なことを適切なタイミングで実行して、それを継続できさえすれば、誰でもできる。だから自分にもできるはず、という考え方です。今自分が思っている〝できる・できない〟ってこれまでの経験の範囲内でしかないので、そういう意味では、得意・不得意の認識すらそこまで価値がない気がします」

 「男性には自信がある」というのは、やはり一般化しすぎだと思う。自信のない男性だって山ほどいる。ただ、先の二人の「自信を持てるくらい情報収集する」「適切に実行して継続すればできる」という発言にはヒントがあった。成功をきちんと自分の行いによるものだと認識させることは、自己に対する信頼感を積み重ねる土台になるかもしれない。

自信とは、思考を行動に変えるもの

 そもそも自信とは一体何なのだろう。広辞苑には「自分の能力・価値や自分の言行の正しさなどをみずから信じること。また、その気持ち」と定義されている。わかるようで、腹落ちはしない。

 自分に対する肯定的な感情であることはわかるが、自信のほかにも、自己肯定感、自己効力感、自尊心、楽観主義、セルフコンパッションなど、類似の言葉はあまたあり、それぞれ微妙に違った概念だ。

 前出の書籍にはこのような例があった。

初めて行くレストランに向かって車を運転しているところを想像してみてください。教えてもらった道順どおりに、信号のところを曲がります。そこから一マイル、二マイルと走りますが、レストランは見えてきません。ある程度の距離までくるとあなたは『もうレストランに着いていてもおかしくないはず。もしかして間違った方向に曲がったのだろうか?』と考えはじめます。それでもくじけずにそのまま走り続けられるかどうかは、あなたにどれだけ『自分が曲がった方向は正しかった』という自信があるかによります。

 これによれば、自信とは、くじけずにやり遂げること。自信は、行動につながっている。この例でいえば、この道は正しいと信じることが、進み続ける(成果が出るまで待つ)という行動を起こしている。

 自信は「自分はすばらしい」という類の、単なる自分へのポジティブな感情ではなく、行動を促すものだった。自信は、思考を行動に変える。居心地のいい場所から出て、新しいことや難しいことに取り組もうとする意欲をくれる。だから「自信は必要なのか」という問いは、「あったほうがいい」という答えに導かれるだろう。

 そこで気になるのは、自信は習得できるのかということ。

自信をくれるのは、成功体験ではなかった

 自信は行動につながる。では、自信がなければ行動できないのかといえば、決してそうではないはずだ。

 エンジニアで、昨年マネージャーに昇格した女性がいる。彼女ははじめ、自信を持てなかったという。初めてのマネジメントへの不安には、行動で対応した。

 「自信を持つためにできることは、小さなことでも行動を起こすことだと思います。不安を不安のまま放置すると、どんどん大きくなってしまいます。同様に、発言や行動した人を周囲が称える文化をつくっていくことも大切です。私はまだまだですが、以前と比べれば自信のある状態になったと思います。理想にがんじがらめになって動けない状態から、完璧じゃなくても行動できる方向にシフトしつつあるからです」

 自信がないときこそ、動いてみる。自信は、行動するのに必要な資格などではない。あれこれ思い悩み、自己批判に夢中になっている「頭の中」から出てきてしまえば、実際のあれこれは「頭の中」よりずっと容易かったりする。

 わたしが自信について考えたこの数カ月。最大の発見は、失敗の捉え方にあった。わたしは成功体験を積むことで自信が育まれるものと思っていたが、どうやらそれは逆だった。自信をくれるのは、失敗のほう。もっと気軽に失敗したほうがいいのだ。いや、便宜上「失敗」と呼んではいるが、失敗という概念はたぶん「頭の中」にしかない。いざ動き始めてしまえば、失敗は目的地に向かうまでの出来事の一つでしかない。失敗は結果ではなく、プロセスの一部だ。そう思えるようになれば、きっと自信構築の好循環が回り始めるだろう。

 ただし、本当に自信を得るためには、他者からの評価をそのまま自分の価値に置き換えることをやめないといけない。批判を気にしないだけではない。好かれたい、褒められたいという甘い誘惑も手放さないといけない。もっと自分の内的なもの、志や美徳のほうに耳を傾けていいんだと気づくことができれば、他者からの賞賛に基づいた脆い自信ではなく、自分自身の喜びや誇りによって形成された、より強度の高い自信を身につけることができるだろう。

 確かに今の社会にはさまざまな刷り込みやバイアスがあり、チャンスは平等に与えられているとは言えない。それに、人はそれぞれ事情を抱えている。自信を持てず、行動できないことは、決して悪ではないことは記しておきたい。

 けれど今回伝えたかったことは、誰かがスポットライトを当ててくれたとき、光に飛び込むかどうかを決めるのは、結局は自分自身だということ。

 自信は、行動につながっている。けれど、行動するのに自信はいらない。「自信がない。わたしにはできない」と言いたい欲求は、これからもいろいろな場面で顔を覗かせるだろう。それでも初めの一歩はきっと、二歩目を踏み込む理由になる。頭の中で完璧でいられる方法を模索するよりも、思い切って実際の世界を歩いてみたほうが、足取りはずっと軽い。

執筆 ニシブマリエ

白黒つけようとせず、複雑なものを複雑なままに。そんなスタンスを大切に、ジェンダーや社会的マイノリティを中心に取材・執筆している。リブセンスでは広報を経て、Q by Livesense 編集長に。最近、親になりました。

編集後記