2021.05.06

マナーは守るもの? ビジネスマナー研修のあり方を探る

 近頃はマナーの評判が低い。

 理由はなんとなくわかる。印鑑は傾けて押せだの、とっくりの注ぎ口は逆さにしろだの、了解という言葉は使うべきではないだの、マナーの皮を被った紛い物が横行しているからだろう。たしかに嫌気がさす。

 こうしたものは「創作マナー」と揶揄され、それを教えるマナー講師は「失礼クリエイター」と呼ばれている。ありもしない「礼」をでっちあげ、これまでふつうに行われてきたことを「失礼」と貶めるからだ。

 しかし批判されているのは創作マナーだけでもない。時代の移ろいにあわせて、従来はよしとされてきたマナーにも、再考の眼差しが向けられている。

 例えば、社外の人の前では、社内の人を呼び捨てにすること。最近はこの呼び捨てに違和感を持つ人が増えている。会社のウチ・ソトの観念が弱まったからだろうか。リブセンス社内でも違和感を持つ人は少なくない。

 エスカレーターの片側を空ける慣習も、反対が増えてきた。エスカレーターの上を歩くのは輸送効率を落とす上に、危険性も高いそうだ。JRも公式に片側を空けないよう呼びかけているくらいだから、もはやマナーと呼んで守るべきではないのだろう。

 どれが紛い物で、どれが正しいマナーなのか。明文化されていないからややこしい。正解と間違いは、はっきりと分かれないし、誰も正しいマナーを定めることはできない。

 そんな話をわきに置いて、思いやりが肝心なのだと説く向きもあるが、どうにも得心しがたい。むろん情があればこそ礼を払うのだから、思いやりは不可欠だろうが、マナーの多くは歴史的に培われてきたものであり、親切心だけで果たせるものではない。どう考えても知識がいる。

 マナーは国や地域によっても大きく異なる。ミラノでスパゲッティを音を立てて啜っては大問題だが、浅草では蕎麦をずずずと啜らずにはいられない。
 こうした違いは慣習でしか説明がつかず、どちらが正しいかという議論には終わりがない。郷に入っては郷に従うのが筋だろう。知識があってはじめて、思いやりの余地が現れる。

 マナーが嫌われる理由はわかりやすい。合理的でないからだ。
 タクシーを考えてみよう。出入りの手間を考えても、支払いを考えても、一番奥に目下の人が座るほうが楽だろう。床の間ならいざ知らず、タクシーの狭苦しい車内にまで上座・下座を持ち出すのは合理性に欠けている。

 しかし以上のことを了解した上でなお、あまり親しくない目上の人を前にしては、マナーを守らざるを得ないのが多くの社会人の性である。結局マナーはどこまでいっても形式に支えられており、そこに歴史的な経緯を見つけることはできたとしても、合理的な理由を求めるのは難しい。そういうものだと納得する他ない。

 なぜ今回マナーの話を持ち出したか。四月にはリブセンスも新卒社員を迎え、マナー研修を行ったからである。

マナーを教えることの難しさ

 企業はなぜマナー研修を行うのか。社会人の心がけということだろうか。取引先に失礼があっては困る、という実利的な話かもしれない。理由はなんにせよ、多くの会社では新卒社員にマナー研修を施しているのが実情だろう。

 しかし学生がマナーを知らないかというと、そうでもない。中高生あたりから階層社会へと参加し、大学生ともなればサークルに就活にと社会との接点も増えていく。いまどきの学生なら、最低限のマナーは十分知っている。実際に参加した新卒社員からもそういう声はあった。

 リモートワークが標準化した今日、対面マナーを実践する機会も激減している。研修で憶えても使うまでに忘れてしまうこともある。ググればなんでも出てくる時代だから、詰め込み教育をする必要もない。

 教える側の気苦労もある。個人情報や知的財産について教えるのはずっと気が楽だ。新卒社員はそこまで詳しくないだろうし、間違いを犯してから知らなかったでは済まされない。まさに守るべき社会のルールだ。これを守れ、さもなくば会社が損失を被るのだといえばいい。しかしマナーはそうでもない。

 マナーは守らされるものではない。より正確に言えば、守らされているならば、それはマナーとは呼べない。守らなければいけないものは法であり、規則であり、ルールである。マナーはそういうものではない。だから、教える側にはいつも後ろめたさがつきまとう。

 「守った方がいいよ。守らなくてもいいけど、でも守らないのはどうなのかな……いやいや、ぼくはそういうところで人を判断するような人間じゃないけど、でも『世間』がさあ……」

 とかなんとか。たいてい最後は「社外」とか「世間」を持ち出して丸くおさめようとする。どこまでいっても歯切れが悪い。

 研修に求められるのは、マナーの内容を教えることよりも、マナーに疑問を抱き、意義を考え直す機会を持つことかもしれない。

 実はリブセンスでは、去年は外注していたマナー研修を内製に切り替えた。そこにはまさにマナーの意義をめぐる、担当者の葛藤があったようである。人事部の酒井美樹さんに事情を聞いた。

マナーを支える二つの要素

 「内製に切り替えた背景には、去年のマナー研修における反省がありました」と酒井さんは言う。マナーの重要性についての講義を受けて、受講者だった伊藤遼さんからこのような声があがった。

「他社ではマナーが一定重視されるから、取引先としてそういうところに当たった場合にも恥ずかしくないようにマナーを身に着けるべき」というのもある程度理解はできるが、「そもそも他社でもなぜそのような形のマナーが重視されるのか」についての納得感が全くない

 鋭い指摘だ。マナーの本質を突いている。たしかにマナーの形に合理的な理由は存在しない。伊藤さんもそのことは理解し、後にマナーの起源や歴史について自主的に学んだという。

 一方でその方法にも限界を感じたようで、こんなことも書いている。

マナー研修で教わる項目数って膨大なので、一つ一つ起源を調べていくのはキリがないし、知りたいことともちょっと違う

 そう、起源を調べてわかるのは、一つのマナーが生まれた歴史的背景でしかない。現代でもなおそれを守るべき合理的理由が説明されるわけではないし、むしろ今の社会には当てはまらない経緯を発掘し、非合理性を発見することすらあるだろう。由来と合理はしばしば一致しない。

 こうした声を受けて今年はマナー研修を内製化し、意義の内省を重視した研修に切り替えた。

 「マナー研修をマインド編と実践編の二つにわけました。去年は考える時間がなく、いきなり憶えてくださいとなってしまったので、今年はマナーについて考える時間を重点的にとりたいと思いました」(酒井さん)

 研修のはじめにはマナーの意義を考えるため、四〇分にわたるグループ・ディスカッションが設けられた。マナーと聞いて何を思い浮かべるか。マナーはなんのためにあるのか。ほんとうに必要なのか。懐疑を重ねる。

 この試みは奏功したようだ。今年の受講者である二一新卒の鶴田苑美さんはこんな感想を述べている。

マナー研修については、初回のマインド編が一番印象的でした。

マナーは、形骸化しやすいものでもあり、ただ「こうするものだからそうしなければならない」「そういうものだから」と一方的に与えられるものになりがちですが、ビジネスマナーとはなにか?というマインドのところから一緒に考える機会・時間をたっぷりとっていただいてとてもありがたかったです。

 マナーの意義とは何なのか。グループ・ディスカッションを終えた受講者から一通りの発表があった後、一応の答えも用意される。
 マナーは思いやりの心と型である、というものだ(西出ひろ子氏の著作を参考にしている)。なるほどこれは納得がいく。心情だけでマナーは成立しない。そこには形式が要請される。

 心と型が一対でマナーとなる。よく馴染む考え方だ。二千年以上も昔、孔子の時代からそういう見方はあった。孔子は「仁=心」と「礼=型」を重視した。しかし二つのコンセプトを掲げれば、どちらが重要かという論争が生まれる。

 心と型のどちらが大切なのか。孔子の死後、弟子たちは二つの流派に分裂した。
 心を重視した者は、型を厳格に守ることに大した意味はなく、心の持ち様こそが重要であると説いた。逆に型を重んじた者は、型をしっかりと守ることによってこそ心が現れる。型の乱れは心の乱れであると考えた。

 決着はつかず、両者は袂を分かつことになる。わたしたちは二千年以上もこんなことに思い悩んでいる。

 それでもどちらかといえば、現代ではマナーの型が疎んじられ、思いやりの心が重視されているようだ。「心がこもってさえいれば型にこだわる必要はない」という考えもある。しかしこれは正当性があるようで、実現が難しい。研修ではこう説かれている。

  • どんなに相手を思いやっていても、言葉や行動で表現されないと相手には伝わりません。
  • どんなに言葉や行動が丁寧であっても、心がこもっていなければ形式的なものになってしまいます。

 感情を表現するために様式がある。相手を思うだけで、それが相手に伝わることはない。思いやりの情を持つならば、思いやりを伝える共通の様式が必要である。

表現様式としてのマナー

 心と型が組み合わさって働き、相手や周囲に意味を伝えるための共通の様式。それをマナーと呼ぶのなら、マナーはルールというより言語に近い。

 マナーを破り、無礼を働くとどうなるか。ルールを破るのとは違って、誰も罰したりはしない。ただ無礼な人だという印象を周囲に与えるだけだ。罰則はなく、意味を撒く。マナーは守るも守らないも、それ自体がコミュニケーションとなる。

 逆に過度に丁重に接すればどうなるか。友人も同僚も、親しくなれば振る舞いが変わるのが自然だから、ずっと形式張っていれば、相手は親しみを感じない。形式をゆるめることは親しさを示す。そうしないと「他人行儀」と思われる。逆にいきなり距離を詰め過ぎても失敗する。こちらは「親しき仲にも礼儀あり」である。

 食事のマナーだって、三つ星レストランと、近所の定食屋と、恋人の自宅では変わってくる。ケース・バイ・ケースの多いのが、マナーのややこしいところでもある。ルールが厳しいのではない。表現が多様なのだ。

 あえて礼を崩して親密さを表現することもあれば、わざと不躾な態度をとって怒りを表現することもある。

 一昔前の長野県庁でこんなことがあった。新知事が決まったあとの就任挨拶で、知事の名刺を受け取った職員が、目の前で知事の名刺を折り曲げた。トップが庁内で、自分の名刺なんか配るものではないというメッセージだ。名刺を折り曲げるなんてビジネスシーンでは考えられない非礼であり、だからこそ強烈な感情が伝わってくる。無礼も非礼も、一つのメッセージとなる。

 もう一つマナーをめぐる有名な逸話を紹介しよう。晩餐会の話である。
 ある小さなホームパーティで、外国人客の一人が、指を洗うためのフィンガーボウルをそれと知らずに飲んでしまった。周囲は慌てるも指摘もできないし、フィンガーボウルを使うことすら憚られてしまう。さてどうしたか。主人は事もなげにフィンガーボウルを口にしたのだ。これは何を意味するのか。

 主人は客人にあわせてマナーを破ることで、ゲストの面目を保った。自らの振る舞いによって、暗黙理に場のコードを書き換えたのである。果たしてマナーという様式を使わずして、このような表現が可能だろうか。社交の場において、マナーは極めて強力な表現様式となる。

マナーの守破離

 マナーは今日、頑なに守るべきものとされ、ルールと混同されている。だから合理性に欠けるとか、ほんとうに守る必要があるのかとか、余計な議論がつきまとう。

 しかし先人の知恵を見るに、マナーを金科玉条のごとく扱うことは決してなかった。最後にそのことを示す二冊の手本を紹介したい。

 一冊目は宝飾品で有名なティファニー社が編纂した『ティファニーのテーブルマナー』である。昭和三六年に発刊された古典的名著だ。さまざまなテーブルマナーが、エレガントなイラストとユーモラスなテキストで紹介されている。

 ナイフやフォークの使い方といった基本はもちろんのこと、アスパラガスやアーティチョークやとうもろこしをどう食べるか、席を立つときや食器を落としたときの対応まで事細かに描かれている。
 最後の章は「べからず集」になっていて、ふんぞり返って食べてはいけませんとか、大声でしゃべらないこととか、振る舞いの禁止が連なっている。可憐なテイストの背後に、威厳を感じさせる一冊だ。

 数々の守るべきマナーが紹介されたのち、この本の末尾はこう締め括られる。

 「これで作法の心得がわかりましたから、作法を破ることができます」

 不思議な一文である。まるで作法を破るために、これまで学んできたかのようだ。この一文は二つのことを示唆している。一つは、マナーを破るのは当然なのだということ。もう一つは、マナーを破るためには、マナーを十分に知っておかねばならないということだ。

 二冊目は江戸の茶人・川上不白が書いた『不白筆記』。茶事の作法といえば、日本のマナーの代表格であろう。

 不白は「守破離」を説いている。守破離とは茶の湯はもとより、武芸や仏教にも昔から続く稽古ステージの区分を指す。修破離と書くこともある。

 守破離では稽古の過程を三つの段階に分けて考える。文字通り、まずは教えられた型を修めて守り、つぎにそれを破ったり崩したりして変化を加え、最後は離れて新たな型を生むことをいう。

 不白は守から破に移るタイミングについて「守を習い尽くせば、人は自然と破に至るだろう」と書いている。守のつぎに必然的に破があらわれる。書き方の違いはあれど、不白の言葉とティファニーの記述は、とてもよく似ている。作法がわかれば、次に作法は破られる。

 しかし守破離はこれだけでは終わらない。さらに不白は続ける。離とは「守と破から離れながら、しかも二つを守ること」なのだと。離の本質は、ただ離れることではない。離れながら守ることにある。新たな作法には、旧い作法が息づいている。

 時代や人々の心にあわせて様式は変化する。マナーもいまは新時代の過渡期にあるのだろう。創作マナーはそんな時代の隙につけこんで跋扈する。
 惑わされないためには、マナーを修めればいい。マナー研修もきっとそのためにある。だからといって、頑固に昔のマナーを守る必要はない。

 マナーを修めたら、マナーは破られる。そう考えるといくぶん気が楽になる。そしてマナーを破ることによって、新たなマナーが生み出される。先人の育んできた守破離の方法には、デタラメな創作マナーを跳ね除け、新たな時代にふさわしいマナーを生み出す知恵が詰まっている。

執筆 桂大介

会社を経営したことで社会の定型に違和感を覚え、教育や経済のオルタナティブに関心を持つ。リブセンスでは企業の在り方を再考する経営デザインプロジェクトを担当。人事制度の提言や研修「常識を考え直すワークショップ」の企画を行っている。趣味はアルコールとファッション。

編集後記