2021.02.01

企業が差別と戦うということ。男性が性別に向き合うということ。

 差別をなくそうなんて考えると、すぐに絶望におそわれる。
 わたしたちの社会に深く根ざす差別構造は、少なくとも数百年、下手すれば千年単位で培われてきたものだから、一朝一夕でどうにかなるものではないし、一個人、一民間企業ができることなんてたかが知れている。どれだけ凄いことをやっても、あしたから差別がなくなるなんてことはない。差別の問題にはそういう徒労感がいつもつきまとう。

 しかし、逆にこうも言えるだろう。仮に差別が部分的にでもなくなる日が来るとすれば、なくなって来たとすれば、それは不断の努力の積み重ねの結果でしかありえないのだと。努力を続けた先達の血のにじむ日々の上に、昨日よりもましな今日が続いている。

 わたしたちもまたそうした先達に倣って差別と戦うことを決め、リブセンスは二〇一九年に経営の指針の一つとして「差別、ハラスメントの根絶と平等の実現」を決議した。上場企業としては当然の、むしろ遅すぎる決議かもしれない。それでもこの決定には上述したような歴史の重みがあった。どれだけ頑張ろうとも焼け石に水をかけることにしかならないだろうけれど、それでもわたしたちは水をかけ続けようと決めた。

 翌二〇二〇年の春にはNPO法人soarと株式会社ミミクリデザインの手を借りて、ジェンダーバイアスについて考える研修「常識を考え直すワークショップ」を実施。第一回はアート鑑賞やロールプレイを通して、自分とは異なる性について身体的に学びを得る機会となった。冬には第二回を開催し、課題図書を通じてジェンダー論の基礎を学びながら、個人的体験を交えて参加者同士がじっくりと対話を重ねていった。

 本記事とこれから続く二本の記事では、「常識を考え直すワークショップ」の意図と結果について振り返り、社内研修の新たな可能性について考えていきたい。

厳罰化やセクハラ防止研修ではなぜダメなのか

 そもそもなぜ研修を作ろうと思ったのか。
 結論からいえば、この社会でこうした学びの可能性を持っている場所は、もはや会社くらいしか残っていないのではないかと思ったからだ。一昔前なら義務教育や高校で済んでいたのかもしれない。しかし社会の常識が驚くべきスピードで刷新されている今日において、教育機関がその役割を担うのは限界がある。行政やマスメディアもがんばっているけれど、一人一人にあわせて展開するのは難しい。インターネットにはオルタナティブな学習機会がいくらでも転がっているものの、すでに興味がある人にしかリーチしない。会社であればテーマに対する興味を問わず、社会教育の機会を一人一人に提供できる。

 もともと平等を実現するという指針が制定され、いざ差別やハラスメントを根絶しようとするとき、第一に検討したのは厳罰化だったが、わたしたちはこの道をほとんど進まなかった。悪質な差別やハラスメントに対して厳しい対処を取ることに異論はないし、そうした処罰を躊躇することはない。しかしこうした問題において、被害者の多くは被害をオープンにすることを望まないし、加害者に伝わることさえも避けたいというケースが少なくない。こういうとき応報による司法はほとんど力を失ってしまう。加害者に何も伝えないまま罰を科すことは不可能である。

 また現実に起きている差別やハラスメントの多くは、罰で対応できるほど白黒はっきりしておらず、もっと微妙なものである。たとえば白人の男性に「日本だとモテるでしょ」と言うこと。トランスジェンダーの人に「中性的でカッコいいよね」と言うこと。女性に「やっぱり女性は器用だね」と言うこと。こうした言葉の一つ一つだって問題を孕んでいるが、果たして罰を課したところで状況が改善するだろうか。刑罰に抑止効果があるのは、行為の結末としての罰が行為者にとって予見できるからである。しかし多くの差別はそうではない。上にあげたような台詞はよかれと思って言われており、そこに悪意はないし、むしろ好意が見つけられるときだってあるだろう。差別は悪意によって用いられることもあるが、差別それ自体は悪意と無縁に存在し、ゆえに悪意を前提とした差別との戦いはしばしば失敗する。

 セクハラ防止研修も似たようなところがある。昔は「容姿をからかってはいけません」が、少し経つと「褒めてもいけません」になり、最近では「容姿に言及してはいけません」になったようだ。しかしいくら注意を拡大しても、ルールがすべてのハラスメントを網羅することなんてできるはずがないし、その禁止の意図が理解されないのであれば新たなハラスメントは必ずまた生まれる。もぐらたたきのように闇雲に禁止を拡大すれば「女性とできるだけ関わらないようにしよう」とか「ジェンダーの問題にはとにかく何も言わないことだ」と考える男性社員が生まれてもおかしくはない。それはまったくの本末転倒である。そういう無関心は、差別の温存を助けこそすれ解消に向かうことはない。

 必要なのはもっと純粋に、差別やハラスメントについて学ぶ機会であり、禁止を押し付けるのではなく、自制すべき行為を判断できるようになることである。

男性の「責められている」感覚

 この研修を開催する上で大切にしたかったのは、わたしが男性として企画し主催するということだった。主催の性別なんて関係ないと言われればそうかもしれないけれど、ジェンダーに関する社会課題は男性が率先して取り組むべき問題だと考えている。あまりこういう問題に詳しくない男性からすれば主催が男性ということでいくばくかの安心感もあるだろう。

 どれだけ多くの男性がそう思うかはわからないけれど、少なくともわたしを含めた何人かの男性は、ジェンダーの問題を学んで「責められている」という感覚を抱くようだ。それはあながち誤解というわけでもなくて、学びが進めば進むほど、これまでの振る舞いの一つ一つに無自覚の偏見が根付いていたことを自省する。それはある日自分が犯罪者だったことに突然気づくような衝撃の体験であり、つぎつぎと余罪が明らかになっていくような痛烈な経験である。こういう感覚は払拭することが難しく、男性がジェンダー問題に取り組むことの一つの心理的障壁になっているように思う。

 大前提としてはっきりさせておくべきことは、男性がただ男性というだけで罪人であるように考えるのは誤っているということだ。そういう視点はジェンダー平等から遠ざかるものである。「男性の加害性」とか「マンスプレイニング」とかいう言葉がどれだけ盛んに語られたとしても、すべての男性に加害的振る舞いが先天的・普遍的にインストールされているわけではないし、ましてや生まれながらの加害者だと糾弾されていいわけがない。

 わたしたちは罪と責任のあいだにはっきりと線を引かなければならない。
 男性であること、男性に生まれたことに罪はない。しかし、それでも負う責任はあるだろう。男性に生まれたことで見えない下駄を履いてきたのなら、その下駄を脱ぐ勇気を持たねばならないし、同僚の女性がガラスの天井にあぐねているならば、足元のガラスを割る気概を奮わねばなるまい。それは男性という属性が負う集団的な責任である。個人的な罪はなく、集団的な責任がある。両者を混同してはならない。

 こうした罪と責任の見方はドイツ出身の哲学者ハンナ・アレントに借りている。アレントはナチスによって戦後ドイツが負った集団責任を例にあげ「わたしたちは、自分たちがしていないことにたいしても、責任を負うことがある」と書き、返す刀で「ただし自分がしていない物事について罪があるとか、罪を感じるべきだというべきではない」と書いている。アレントは加えて、みんなに罪があるように言うことは、実際に罪を負うべき人の罪を軽くしているのだとまで指摘している。こうした見方はわたしたち男性がジェンダー平等を考えるときにも大きな助けとなる。

潜在的連合と無自覚バイアス

 本研修の狙いは、おおざっぱにいえば、わたしたちの無意識に巣食うバイアスに目を向けることにあった。

 たとえば「女性」と「料理」という二つのイメージは強く結びついている。わたしたちはもはやそうした結びつきが古いものであることを十分承知しているが、それでも二つの観念の連合を無意識下から追い出すのは難しい。こうした無意識に巣食う観念の組み合わせを「潜在的連合」(インプリシット・アソシエーション)と呼ぶ。他にも「女性」は「文系」「裁縫」「育児」などと結びついており、逆に「男性」は「理系」「ビジネス」「政治」などと結びついているだろう。性別の他にも人種、国籍、体型、年齢などさまざまなメジャーな属性について潜在的連合が認められる。こうした連合は人間が生まれつきもったものではなく、この社会で育つなかで、世相を反映して後天的に身につけるものである。潜在的連合それ自体は社会のひとつの統計的な傾向を示しているに過ぎず、社会の構成員はこうした観念を無意識下に共有している。

 潜在的連合は人のこころにどう働きかけるだろうか。人は多かれ少なかれ社会の現状をモデルとし、それを内面化して生きている。だから、女児が「ケーキ屋さんになりたい」と思う割合が男児より多かったり、男児が「サッカー選手になりたい」と思う割合が女児より多かったりもする。そうした願望が社会のモデルを内面化し、ジェンダーバイアスのかかった現状を再生産するものだったとしても、個人の願望を批判することはできない。問題は「サッカー選手になりたい女児」や「ケーキ屋さんになりたい男児」に対して「それは女らしくない/男らしくないからやめるべきだ」と言うことである。そのとき潜在的連合はもはや強固に圧着され、「女らしさ」「男らしさ」という固定観念と化して他者を抑圧する。

 このように潜在的連合が「見方」として成立したものは「無自覚の偏見」(アンコンシャス・バイアス)と呼ばれる。わたしたちが一貫して狙い定めたのは、この「無自覚の偏見」を明らかにし「自覚的な偏見」へと移行させることである。わたしたちは偏見をなくすことはできないが、それが差別的な暴力や抑圧を引き起こしていないかを振り返ることはできる。無自覚の偏見を自覚し、潜在的連合の正体を明らかにすること。アファーマティブ・アクションも合理的配慮も、そこを起点にして生まれてくる。

会社の学びを社会の学びに

 以上のようなことを背景に、本研修は実施された。詳しい内容についてはsoarからレポートがあがる予定だ。本ブログでも引き続き参加者からの反響などを紹介していく。

 もともとは社内研修として企画されたものであったが、途中から思いきって方針を変え、社外からも参加者を募った。入れ替わりの激しい業界において、社内だけが成熟しても意味がないし、学びを社内に閉じる必然性はどこにもない。社会教育においては、企業は競合優位性だとか差別化戦略だとかを口にするのでなく、広く学びの門戸を開放していければいい。一民間企業ができることなんてたかが知れているが、それが十になり百になれば何かが変わるかもしれない。

 研修の内容もまだまだ改善の余地があるだろう。わたしたちも開催を重ねながら模索を続けているのが現状である。社会も変化を続け、常識も変化を続けている。研修も生き物のように変わっていくのが当然なのかもしれない。先達の学びをしっかりと活かしながら、社会の状況や参加者にあわせて、改善を重ねたい。こういった研修の企画者同士がつながって、お互いの研修に参加しながらよりよい形を模索できたらとも思う。興味のある方はぜひ連絡してほしい。「常識を考え直すワークショップ」は本年二〇二一年も開催する予定だ。社外参加の枠もより大きく広げていきたい。

 差別をなくそうなんて考えると、すぐに絶望におそわれる。それはすぐには変わらない。でも、今日よりましな明日をもとめて、焼け石に水をかけ続けたい。

執筆 桂大介

正常な社会に潜むおかしなことを発見すべく記事を執筆。リブセンスでは人事を経て、現在はコーポレート全体を担当。時代にあわせた経営の形を模索している。趣味はアルコールとファッション。