「幸せはお金で買えない」とは言うけれど。お金への不安が幸福感を削ぐのもまた事実だと思う。家賃に、食費に、医療費に。必要経費を支払って手元に残るいくばくかのお金。当然だが、生活者はこの範囲内で切り盛りをしないといけない。飲みに行けない、欲しいものを買えない、旅行に行けない。小さな欲求を満たせないことが続くと、自分はどこかで何かを間違えてしまったのだろうかと、じわじわ自尊心がえぐられる。
そんな中、定期的にやってくる評価の時期。「次は昇格があるだろう」とうっすら期待していたが、そんな希望も打ち砕かれる。真面目に働いているつもりなのに、あと半年、あと一年、給料が上がらないのか……。
これは私が二〇代の頃抱えていた悩み。査定結果を受け取るたびに「あなたは仕事ができない人間です」と言われているようで、人知れず傷ついていた。
お金の悩み、評価されないという悩みは人に言えない。人に話したところで気まずい空気が流れるのは目に見えている。同情されるだけならまだしも「あなたが選んだ道でしょ」「昇進できるようにがんばるしかないね」といった正論に、責められているような気持ちになる。
本稿で考えたいのは、評価が上がらず給与が上がらないのは、本人の努力が足りないせいなのかということだ。人は職場のゴシップとして、気軽に「あの人は仕事ができる・できない」という言葉をつかう。そのとき指し示されている「能力」とは一体何なのだろうか。
上に上がるためのお作法がわからない
「自分ではがんばっているつもりなんですけど、何年も給与が上がってないです」
そう話すのは三〇代の社員Aさん。リブセンスには数年前に中途入社した。プライベートの時間も大切にしたいAさんは「無理してまで昇進したい」とは思っていないものの、なかなか上がらない等級にもやもやすることはあるという。
「経済的に余裕がないと、日々の何気ない選択肢が削られますよね。牛乳を買いたいところを安い乳飲料を手に取ったり、国産の代わりに外国産のお肉にしたり。そういうときに、余裕のなさを感じます」
給与が上がらない要因についてどう思っているのかと聞くと、Aさんはこう答える。
「上に上がるためのお作法がよくわかっていないのかもしれません。プロジェクトを率先して引っ張るとか、実績をしっかりアピールするとか、昇進する人たちが自然にやっているような振る舞いがなかなかできなくて。
昔みたいに年功序列が当たり前だったら悩まなくて済むんですけどね。成果主義だと給与額があなたの価値だとダイレクトに言われているようで、昇進したいと思っていなくても落ち込みはします」
給与額はどう決まる?
日本では、もう三〇年近く賃金が上がっていない。昨年はインフレの影響もありさすがに賃上げの波があったが、物価上昇を上回るだけのベースアップや昇給が行われたかというと疑問だ。
給与が上がらないことは、今や日本国民の大多数が直面している問題のはずなのだが、自分のこととなるとAさんのように「自分が至らないせい」と考える人は多いのではないか。
そもそも給与額はどのように決まるのか。基本給の構成は、企業規模や業種によっても異なるだろうが、たとえば千人以上の従業員がいる会社だとこんな感じだ。「職務内容・職務遂行能力」と「総合判断」とで約8割を占め、「年齢・勤続年数等」が8・4%、「業績・成果等」が7・5% [1] 。大企業では、「成果」より「年齢・勤続年数」のほうが基本給への影響はわずかに大きいようだ。
- [1] 「中央労働委員会 令和6年賃金事情調査」
リブセンスの場合はどうか。リブセンスは成果主義寄りの人事制度をとっている。ただ、成果が毎月の給与に直結するかというとそうではない。成果は賞与のほうに反映されるようになっている。成果の背景には変数が多いからだ。どこの事業部に配属されるか、競合サービスがどのような状況か、社会情勢や市況感はどうか。成果には、偶然も大いに影響する。
では月々の給与はというと、等級により決まるようになっている。等級とは、従業員に求めたいパフォーマンス特性(コンピテンシー)をレベル分けしたもの。偶然の要素が影響しやすい「成果」に対して、等級のほうは再現性のある「価値発揮」を見ている。一般にいうところの「能力」に近い。
前出の大企業向けの調査の中にも「職務遂行能力」があったが、能力を評価基準の一つにしている企業は決して珍しくない。
「能力で評価する」というと真っ当に聞こえる。自己研鑽に励めば、誰にでもチャンスが舞い込んでくる。それは公平な仕組みのように思える。しかし逆をいえば、評価されず昇進できない人は、努力が足りていないということなのだろうか。
揺れ動く能力
給与を上げたい? それなら、能力を伸ばそう。能力を伸ばすなら、努力しなきゃ。
給与が上がらないことを個人の努力不足だという人は、こういう理屈なのだと思うのだが、よくよく周りを見渡すと、昇給する人としない人にそこまで「努力の差」があるのだろうか。昇給する人は、寝る間も惜しんで本を読んでいる? 休日に講座に通っている? そもそも努力とは何かという問いにもなる。
どこに差があるかと言えば、もっと身も蓋もないところが浮かんでしまう。人とのコミュニケーションが上手いとか、会議中の発言が的確だとか、言ったことを必ずやってのけるとか。身も蓋もないと書いたのは、これらは努力の問題でもない気がするからだ。心掛けで変えられる部分はあるかもしれないが、たとえば会議で芯を食った発言をできるかどうかは一朝一夕で身につくものでもない。
それに、どういう行いを「能力がある」とみなすかは、人によってバラバラだ。さすがに会社の等級となるとそれらが言語化された定義表があるが、雑談の中で誰かを指して「あの人は能力がある・ない」と品評が行われるとき、その定義はあやふやだ。
それでも多くの人が、能力で序列をつけることに公平性を感じるのは、能力というのは個人の中に絶対的に存在するもので、個人の行いが反映された結果だと思い込んでいるからではないか。組織開発の専門家である勅使川原真衣氏は、著書『「能力」の生きづらさをほぐす』のなかで次のように語っている。
能力は環境次第でいくらでも移ろうもの。個々の身体のなかに確固として存在する臓器のようなはっきりしたものではない。誰と、なにを、どのようにやるか、これ次第。(中略)
さまざまな感情や考え、言動が入り混じる職場において、なにが、どのような指示系統のなかで進められていくか。そうした環境と自身がかみ合った状態が、「活躍」や「優秀」と表現されるにすぎない。個人のなかに臓器のように能力が存在していて、それに良し悪しがあると考えている限りは、職場での不幸なミスマッチはなくならない。
能力の程度は環境により揺れ動き、一定ではないということだ。
私にもそれを肌で感じた経験がある。冒頭に二〇代の頃の給与の悩みについて書いたが、負のループから抜け出すきっかけになったのは、まさに職種と環境を変えたことだった。驚いたのは、他者からの評価が一変したことだ。たとえば「些末なことばかり気にする」という短所が「細部にまでこだわる」という長所に化けた。
それまでの評価が絶対的ではなかったことを知り、心底安堵した。自分についた「仕事ができない」レッテルを手放せて、仕事がうんと楽しくなった。
私のケースとは反対に、環境によって、強みと思っていた素養が出せなくなることもある。たとえばリーダーシップという行動特性一つとっても、どんなタイプのメンバーがいるか、チームに何人いるか、どのようなプロジェクトを率いるかによって発露されるリーダーシップの質は別物になる。
人にも仕事にも相性がある。能力というのは、スイッチのようにいつでも自分自身で入れられるものではなく、人や環境との噛み合わせで灯ったり灯らなかったりする。仕事が「できる」人も「できない」人も、環境という偶発性に多かれ少なかれ左右されている。
能力主義の先にあるもの
そう考えると、個人が「能力を伸ばす」とか「給与を上げる」というのは、不可能とは言わないまでも、いささか無理があるようにも思える。能力は、然るべき経験をすることで「伸びる」ものだし、それに伴って給与も「上がる」ものなのではないか。
Aさんはインタビューの中で「成果主義は給与額があなたの価値だとダイレクトに言われているよう」だと語っていた。それが成果主義(能力主義)の副作用だと思う。昇給がないことは、環境や構造の問題でもある。それなのに評価されない人だけが「自分が悪いのだ」と肩身の狭い思いをし、自信を失っていく。
能力主義はかつて、封建的な社会を打ち破る希望でもあった。生まれや家柄ではなく、努力で報われる社会。そんな理念が掲げられたとき、多くの人が救われた。これでフェアな勝負ができると。
このとき忘れがちなのは、人はそれぞれ環境も出発点もちがうことだ。今の部署がハマるかハマらないかだけでなく、どのような家庭環境で育ったか、どのような時代背景に生まれたか、支えてくれる人間関係はあったかなど、持ち合わせているカードがちがう中でどのようにフェアを考えるかはとても難しい。
成果主義や能力主義そのものを否定したいわけではない。汗をかく経験や、成長しようと自己研鑽する姿が無駄だというつもりも毛頭ない。しかし、能力主義を盲信することで、自己責任論に絡め取られてしまう危険性もある。
成し遂げたいことがあるとき、成長したいとき。個人にできる術は、二つだけだ。目の前の一つひとつに向き合うこと。そして自分の力が発揮されやすい環境を選ぶこと。つまり「誰と、なにを、どのようにやるか」を見直すことが自分でできる戦略なのだと思う。
ただ努力ができる状態か、努力が実を結びやすいかは、生きる場所によってちがう。誰かを「仕事ができない」とジャッジしたくなったとき、別の角度から眺めることができれば、建設的な道筋が見つかるかもしれない。
最後にもう一つ。「給与が上がらない」に対して考えておきたいのは、給与は本当に上がったほうがいいのかということだ。私自身は「上がったほうがいいに決まってる」と反射的に感じてしまうが、それは現代があまりに経済的自立と自尊心が結びつきやすいからなのだと思う。稼ぎがあってもなくても、それによって自分の存在価値が揺らがないほうが精神は自由だ。
あれこれ論じてきたが、私の中にも「成長は善で、停滞は悪」という能力主義の尺度がしっかり染み付いていたのだという内省も記しておきたい。