2023.09.26

「心理的安全性」はなぜ混乱を招き続けるのか

 心理的安全性という概念がある。ここ十年ほどチームづくりの最重要ファクターであるともてはやされ、他方では粗雑な理解によって批判されてきた。急に人気の出たアイドルの宿命みたいなものを背負っている。
 世間的なイメージがどのようなものか、少し羅列してみよう。
 なんでも言える。否定されない。安心して働ける。不安がない。感情を大切にしてもらえる。あなたはあなたのままでいいと肯定される。
 こうしたイメージを抱いている人もいるかもしれないが、残念ながらこれらは、心理的安全性の正しい姿からは遠くかけ離れている。ただ安心してほしいのは、こうした誤解をしている人は決して少なくないということだ。

 手持ちのグーグルで「心理的安全性 誤解」と検索してみると、何ページにもわたって理解を正す記事が並んでいる。NewsPicksも、プレジデントも、朝日新聞も、Qiitaも、東洋経済も、あらゆるメディアが心理的安全性の誤解について語っている。
 いわく。心理的安全性は、心地よさではない。好き勝手に振る舞えることではない。楽しく優しい職場ではない。対立を回避することではない。快適さではない。目標を低くすることではない。仲良し組織のことではない。感じよく振る舞うことではない。ぬるい職場ではない。信頼とは関係がない。云々。

 急激に広まったバズワードが多少の意味のゆらぎに晒されるのはやむを得ないとしても、これだけの誤解を招く概念はそうそう見当たらない。悲惨なことに、こうした誤解の半分くらいは、心理的安全性とは正反対の状態を指している。ちょっとズレているとか、正確性に欠けるとか、そういう類のものではない。
 これだけ人気が高い概念に誤解が横行していることは由々しき問題だけれど、理解を正したいだけなら、Q by Livesenseが記事を書く必要はない。この概念を提唱したエイミー・エドモンドソンは、自身の著作でこの概念について注意深く説明しているし、本を手にとるのが億劫だとしても、世の中にはすでに正確な理解を伝えるための記事があふれている。

 本記事は、なぜ流行する心理的安全性という概念が、これだけの混乱を招くのかに焦点を当てたい。ぼくの見立てでは、その問題は多くの職場にとって心理的安全性の実現が極めて難しいということに起因している。
 とはいえ議論をスムーズにするために、まずはかんたんに典型的な誤解を解いておこう。

心理的安全性は誰のためにあるのか

 心理的安全性の重要性が喧伝される一方で、その適用について懸念を示し、反対する声も広がっている。心理的安全性を求めると、厳しいフィードバックをしづらくなる。反対意見を言いづらくなる。失敗に対する処罰がしづらくなる。
 総じて部下の側が「心理的安全性がほしい」と思い、上司の側が「やりづらくなる」と危惧することが多いようだ。上司の側は、何か面倒な権利主張をされたように感じる。そういう構図だ。
 結論からいえば、こうした懸念は杞憂に過ぎない。心理的安全性はそういうものではない。むしろ反対意見やネガティブ・フィードバックを正しく行うためのものである。

 まずは心理的安全性が欠けている状況について説明しよう。それはあなたの意見や考えを、率直に伝えられないチーム。まさに「反対意見を言いづらい」ようなチームを指している。
 たとえば、目の前に失敗を起こしそうな人がいる。上司でも部下でもどちらでもいい。あなたはそれを指摘したいとしよう。
 相手が怒りっぽい上司だとすれば、あなたは激高され叱責されることを予想し、指摘を躊躇してしまうかもしれない。怒られるくらいならスルーしちゃってもいいか。評価にも影響したら面倒だな。そんな考えがよぎるとき、このチームには心理的安全性がない。
 相手が部下でも同じだ。指摘した相手がすぐに感情的に反発したり、同僚に不平を言いふらしたり、ハラスメントを仄めかすようなら、あなたは注意の一つ一つも面倒になるだろう。やはりここにも心理的安全性はない。

 どちらの状況でも、あなたは我慢している。仕事を遂行したいが、予想される相手のリアクションがそれを邪魔している。人間関係が仕事を阻んでいる。心理的安全性が問題視するのは、こういう状況だ。
 だから、「否定されないのが心理的安全性」という理解は、明白に間違っている。心理的安全性が目指すのは、個人の快適さではない。
 心理的安全性は、組織のパフォーマンスを目的とする。ミスの可能性をお互いに指摘し、異論を交わしあい、新しいアイディアを歓迎する。そのために、闊達な意見の発露が要請されている。結果として、個々人も豊かな職場体験を得るかもしれないが、それはあくまで副産物であってゴールではない。

罰金や解雇によっても心理的安全性は向上しうる

 なぜこのような誤解が生じたのか。状況は不憫だが、これだけの壮大な誤解が多方面で生じているのなら、原因は概念の側にあると考えるのが妥当だろう。
 たとえば、心理的安全性を計測するチェックリストには「チームの中でミスをしてもたいてい非難されない」という項目がある。チェックすると、心理的安全性が高いと判定される。やはり心理的安全性を導入すれば、ミスを非難できなくなってしまうのか? そう考えてしまうのも無理はない。

 ミスが咎められない組織は、ほんとうに健全だろうか。毎回毎回、寛容に接していれば、ミスは無くならないのではないか。そういう心配をする方もいるだろう。安心して欲しい。その点において、心理的安全性の提唱者であるエドモンドソンの態度は、明快かつ厳格である。
 エドモンドソンの答えはこうだ。「非難されても仕方のない行為に対しては、ときとして解雇が、適切で生産的な対応になる」。著作のなかで、はっきりとそう述べている[1]
 彼女は繰り返されるミスや、回避可能なはずの失敗については、罰金や解雇といった選択肢も取られるべきであると主張しているし、またそういった制裁は心理的安全性を損ねることはなく、むしろ強化されるとまで言っている。心理的安全性が「ミスに甘い組織」を指していないことは明らかだ。

 心理的安全性はわかりづらいだろうか。たしかに矛盾しているようにも感じる。一方ではチェックリストで「ミスをしても非難されない」ことを推奨し、他方では「ミスには解雇もやむなし」と言っている。こうした矛盾が混乱を生んでいるのは想像に難くない。
 しかしよくよく考えると、言っていることは極めて常識的だ。やむを得ないミスには寛容になり、回避可能なミスに対しては厳しく接しようという話に過ぎない。多くの組織は、実際にそうしている。ミスに対し寛容か厳罰かのどちらかの態度しか取らない組織は存在しない。心理的安全性は、人々が考えるほどシンプルで突飛なのではなく、穏当で常識的なものなのだ。

[1] エイミー・C・エドモンドソン『恐れのない組織――「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』野津智子訳、村瀬俊朗解説、2021年、222頁。

究極の心理的安全性がある場所

 さて、ここまで心理的安全性の基本的な理解を進めてきた。ここからは、さらに奥へと進んでいこう。
 まずは、あらためて心理的安全性の定義をおさえておきたい。エドモンドソンは、心理的安全性を「率直に発言したり懸念や疑問やアイデアを話したりすることによる対人リスクを、人々が安心して取れる環境のこと」と定義している。
 対人リスク。心理的安全性を理解するにあたって最重要の概念なので、まずはこれを説明しておこう。端的に書くと、これは「他者のなかにある自分のイメージを損ねるリスク」を指す。

 たとえば、あなたがほとんど初対面の同僚と、昨夜の晩ごはんの話をしているとしよう。そこで相手が「昨日の晩ごはんはカレーライスだった」というときと、「昨日の晩ごはんは仔羊のパイ包み焼きだった」というときでは、あなたに届く印象はまるで違っている。
 もしカレーライスか牛丼かだったら、印象は大して変わらないかもしれないが、仔羊と赤ワインの相性が最高だったんだよと伝えられた瞬間に、あなたの中には、相手の気取った人物像が築かれる。

 こういうことは何かを意図していなくとも、自然に起きている。コミュニケーションは、ただ内容をやりとりするだけのものではないからだ。
 わたしたちの放つ言葉は、ふたつのものを同時に届けている。ひとつはメッセージが表す内容であり、もうひとつはメッセージが与える印象である[2]。人はつねにコミュニケーションを通じて、内容をやりとりするのと同時に、お互いの印象を書き換えている。
 これは相手が人間だから起きることだ。ChatGPT相手には起こらない。「こんな質問をしたらバカだと思われるかな」とか「似たようなことを何回も聞いて邪魔じゃないかな」なんて考えたりはしない。ChatGPTはソフトウェアだから、対人リスクは文字どおり存在しない。あの対話の画面にあるものこそ、究極的な心理的安全性である。

 人間を相手にすれば、すべての発言にこうした副作用がある。たとえばチームみんながある施策に乗り気になっているとき、懸念を口にするとネガティブな人間だと思われるかもしれない。疑問を呈することで、無知な自分をさらけ出してしまうかもしれない。
 人は自己イメージの毀損をおそれ、懸念や疑問を率直に口に出せなくなってしまう。この不安こそが対人リスクの正体だ。
 対人リスクの不安によって、人は過剰に口をつぐんでしまう。結果として、仕事上の問題が見過ごされたり、イノベーションが阻害されたりしてしまう。エドモンドソンの問題意識は、常にそこから出発している。

[2] エドモンドソンが参考にしたゴフマンの和訳書(アーヴィング・ゴフマン『日常生活における自己呈示』中河伸俊 訳、小島奈名子訳、筑摩書房、2023年)によれば、これは「発信する表現」と「放出する表出」と書かれている。本記事では言い方を変えているが、意味していることは同じである。

ことばを扱う仕事の宿命

 実際の仕事の現場において、対人リスクと心理的安全性はどのように感じられるのか。リブセンス社内でインタビューを行った。
 小屋雄亮さんは、現在マッハバイトのプロダクトマネージャーを務めている。サービスの分析・企画を行い、エンジニアやデザイナーとも協働する立場だ。
 まずは対人リスクを日々感じているか、たとえばわからないことがあったときに質問を躊躇してしまうことがあるかどうかについて聞いてみた。

「いまはミッション達成のために聞くことが必要だったら聞けばいいじゃんと思うんですけど、自分に自信がなかったときはできなかったですね。特にちょっと弱ってるときは、相手がどう思うかをネガティブ寄りに考えちゃうので。聞くのをためらったりとか、もうちょっと調べてから聞こうとか。そういう状態になっていたことはありました」

 なるほど心理的安全性はチームの状態と言われるけれど、個人の心構えやコンディションも大きく作用している。自信があるときに大胆になれるのは、対人リスクを取る余裕があるということだろう。
 上司や同僚の振る舞いによっても変化はあるだろうか。

「変わりますね。そんなの気にしてないからどんどん聞いてと、一言言われるだけで相当楽になると思います。相手はこう考えるだろう、というのを勝手に想像しちゃうので」

 ここには心理的安全性を構築するヒントがある。質問を歓迎する雰囲気を打ち出すことで、実際に対人リスクを軽減できそうだ。
 つぎは評価する側としての意見を聞いてみたい。日々のコミュニケーションが、相手の評価につながってしまうことはあるだろうか。

「職種によっても違うのかもしれません。たとえばデザイナーの場合だと、成果物の評価割合がより高くなりやすいですよね。でも、自分のようなプロダクトマネージャーとか、管理職とか、人を巻き込んで推進する仕事では、発言で評価する比重はあがってきちゃいますよね」

 ここに心理的安全性への障壁がある。日常会話のなかで相手を評価しあえば、わたしたちは発言を過度に調整してしまう。それは最良の仕事の仕方ではないかもしれない。しかし日常会話は、一方で、そのままわたしたちの仕事なのである。会話を仕事の一部とする人たちにとって、両者を分かつことは原理的に不可能だ。
 小屋さんもその葛藤を抱えているようだった。最後にこんなことを話してくれた。

「面接だったらそれでもいいと思うんですよ。発言をした背景も深掘りできるし。でもふだんのミーティングや1on1の発言だと、その瞬間に表に出た言葉だけで判断しちゃうので、点での評価になっちゃいますよね。だから日常会話に評価が混じることは、いいとは思えないんです。ただ、なくすのも難しいですね」

自分の印象より、仕事を優先せよ

 コミュニケーションを成果の一部とする仕事にとって、発言と評価を切り離すことはできず、完全なる心理的安全性は実現し得ない。その不可能性が了解されない限り、心理的安全性は混乱を招き続けるというのがここまでの結論である。
 最後に、その上で心理的安全性へと近づくための手立てを考えたい。

 自分のイメージをよく保ちたいというのは、人の自然な欲求だ。それが査定につながるならなおさら。誰からもそうした欲求を取り上げることはできない。
 心理的安全性は、そこに踏み込んでゆく。「自分の印象より、仕事を優先せよ」。露悪的に書いてしまえば、心理的安全性の核にあるメッセージはそういうものだ。
 部下が心理的安全性を求め、上司が懸念を示すという図式は、ここでも間違っている。部下は部下で評価の悪化を恐れるだろうし、一方で上司は上司で権威の低下を恐れるだろう。心理的安全性に向かうことは、その名前とは裏腹に、誰にとっても怖いはずだ。

 お互いに許容を示すことも多少は有効だが、ほんとうに安全性を示したいのなら、自分が率先して対人リスクをとるしか方法がない。自分はいっさいのリスクを取らずに、「弱みを見せていいんだよ」なんていう人は信頼できない。
 誰かがリスクをとってはじめて、ここまでは大丈夫だというラインが示される。弱みを見せあい、恥を晒しあうことで、お互いの安全性が培われる。
 誰か一人がそうしただけで実現されるわけではない。発言で相手を見定める人がいる限り、この呪縛からは誰も逃れられない。心理的安全性は個々人の間で成立するものではなく、チームという場でのみ成立するものだ。

 心理的安全性は、みなが少しずつ手持ちのカードを切って、保身を手放すときに静かに現れる。よく見られたいという欲求を手放すことには、恐怖がともなう。それゆえ心理的安全性はなかなか実現されることがない。
 それでも、心理的安全性という概念がこれだけ流行したのは、みなこういう状況に疲弊してきたからだろう。賢く見られたい。仕事ができると思われたい。ものを知ってると思われたい。そういう願望をゼロにはできなくても、それに振り回される人生は、やっぱり健やかなものではない。

 心理的安全性が教えてくれたのは、保身を捨てる恐怖を乗り越えた先には、実は安全が待っているということだ。それは素晴らしい職場であるように見える。もしくは、その場所でもわたしたちは、誰が一番保身をうまく捨てているかで評価しあっているのかもしれない。

執筆 桂大介

正常な社会に潜むおかしなことを発見すべく記事を執筆。リブセンスでは人事を経て、現在はコーポレート全体を担当。時代にあわせた経営の形を模索している。趣味はアルコールとファッション。