2023.07.12

流行する高い目標設定とその副作用

 一筋縄でいかないような難解な仕事を抱えていると、何をしているときでも、頭の片すみにずっとその仕事が居座っている感じがする。
 憂鬱というほどではないけれど、邪魔になるときもある。楽しい飲み会の最中とか、ゆっくり休まるはずのバスタブでも、ふと気づくとそのことについて考えてしまったりする。気分転換が下手になる。
 それはしかし、少なくともぼくの場合は、半分くらいは意図的にそうなっている。チャレンジングな仕事に携わるのは幸運なことだし、基本的には楽しいことだ。難しい問題について考え続けたい、考え抜きたいという前向きな気持ちもある。通勤路を歩いているときに仕事のことを考えるのは、ちょうどいい暇つぶしにもなっている。それゆえ、塩梅が難しい。

 「シャワーを浴びているときに、いいアイディアが降ってくる」みたいな話とも、ちょっと近い。移動中の電車、お昼ごはん、夜寝る前のベッドの中。考える仕事は、わりとどこででもできる。生活をしていると、頭だけ空いている時間は案外多い。アイディアの閃きは歓迎したいし、その時刻や場所にこだわりはない。
 ただ仮にシャワーを浴びるたびに、自分の意志に反して、毎回毎回仕事のことを考えてしまうとしたら、それは行き過ぎだとも思う。たまたま今は大丈夫でも、そういう事態が続けば、いずれ精神は疲弊してしまう。

 生活のあいまに、仕事について考えること。それは空いている時間を効率よく使っていると言えるし、何かに駆り立てられて仕事に向かわされているとも言える。その境界は極めて曖昧だ。今日はそういう曖昧さについて考えたい。

OKRという黒船

常にストレッチ・ゴールにしなければならない。そのためには、OKRに一〇分の五の自信度を設定するとよい。自信度一〇分の五とは、「目標を達成できる自信が半分しかない」ということだ。

クリスティーナ・ウォドキー『OKR シリコンバレー式で大胆な目標を達成する方法』日経BP

 これはOKRを紹介する本に書かれた一節だ。OKR(Objectives and Key Results)とはインテルが開発し、シリコンバレーで流行した目標管理の手法のひとつだ。
 目指すべき状態(Objectives)と、それを数値化した目標(Key Results)によって構成されている。また大胆な目標を立てることも、OKRのフレームの一つとなっている。
 日本でもメルカリやfreee、SmartHRをはじめ、多くの企業で導入が進んでいる。ベンチャーだけでなく、大手企業でも導入が増えてきた。OKRを全面的に導入していないにせよ、ストレッチゴール、大胆な目標、野心的な目標という言い方で、高い目標を設定しようする会社は増加傾向にあるだろう。

 容易には達成できない高いゴールを設定しようという呼びかけは、最近ではよく聞くようになったものの、一昔前まではそんなことはなかった。目標管理といえば「ちょっと背伸びした目標」と言われるのが常で、しかも「目標は絶対に達成するべし」という風潮もあった。未達となれば、未達なりの処遇もあった。
 最近は状況が異なって、「達成できる自信が半分しかない」ような目標が要請されるようになった。かんたんに言えば、背景には産業構造の変化がある。情報産業の時代になって企業はイノベーションを志向するようになり、五%十%の改善よりも、五倍十倍の改革を目指す現場が増えたということだ。[1]

 先にあげた本では、OKRの難易度の具合について、こんなふうにも書いている。

朝ベッドから飛び起きてやる気が湧いてくれば、いいOを設定できているということだ。もしかしたら達成できないのではないか、と少し心配になれば、適切なKRだと言える。

 目標の難易度の具合を、肌で感じられるいい例えだ。しかし一度冷静になって、自分の寝起きの模様を想像しながら読み返してみたい。
 朝一番に眠りから醒めたときに、目標の未達を心配することは、果たしてわたしたちが本当に目指したい生活像だろうか。

 そうしたい人はそうしてもいい。しかし一度掲げた目標は、かんたんには取り下げられない。その目標は、四半期なり半期なり、場合によっては一年くらいはついて回るものとなる。また、目標は必ずしも自分ひとりで決定できるものではない。自分では高すぎると思う目標を課される人もいるだろう。
 なぜ高い目標が、良しとされているのか。高い目標は、どのように人のパフォーマンスを引き出すのか。次章ではそれを見ていきたい。

[1] こうした十倍を目指すような目標は、人類がかつて成し遂げた月面着陸プロジェクトになぞらえて、しばしば「ムーンショット」と呼ばれる。Google X(現在はX)の所長アストロ・テラーが提唱したことで話題となった。Google Xは自動車の自動運転、IoTコンタクトレンズ、気球インターネット網などを仕掛けたGoogleのラボ機能だ。テラーは「10X Is Easier Than 10 Percent(十倍にすることは、十%の改善よりも簡単だ)」と謳い、ムーンショット志向を呼びかけた。「ムーンショット」はイノベーションを実現するための発想法としてさまざまな企業で展開されたのみならず、いまでは日本政府も掲げる標語となっている。

目標との乖離こそが、創造的なエネルギー源?

 なかなか届かない高い目標にこそ、人は創造性を発揮できる。そういうことを書いた本の一つとして、ここではピーター・センゲの世界的なベストセラー『学習する組織』を取り上げる。
 センゲは現状と目標との乖離を「創造的緊張」と名付け、「乖離こそが真の創造的エネルギーの源」だと説いた。

 センゲはゴムバンドを例にとり、このエネルギーの源を説明している。こういう話だ。ある目標を掲げると、わたしたちの心の中には、ひとつのぴんと張ったゴムバンドが生まれる。ゴムバンドの両極は、「現実」と「目標」でピン留めされている。
 現実と目標の二つが極めて近い場所にあれば(つまり、容易に達成できそうな目標であれば)、ゴムバンドはゆるゆると二つを橋渡しし、大した引力を発揮しない。しかし両者が相応の遠さにあれば、ゴムバンドは伸びて、二つのあいだに引っ張り合う強力な力が生まれる。このときに発生する引力、つまり現実と目標を一致させようとする力こそが、センゲのいうエネルギー源である。

 しかし張力の高いゴムバンドが縮もうとするとき、かならずしも現実から目標へ向かうとは限らない。ゴムバンドの張力(緊張)を解く方法は、もう一つある。
 目指すべき目標を、現実の側に近づけることだ。目標を下げて、もう少し到達しやすいものにする。それもたしかに緊張を緩和する道だ。センゲはこうした目標の引き下げへと向かう動機を、「創造的緊張」と対比する形で「感情的緊張」と呼んでいる。

創造的緊張が悲しみ、落胆、絶望、心配など不安にまつわる気持ちや感情をもたらすことはよくある。これは頻繁に起こることなので、こうした感情と創造的緊張は混同されやすい。創造のプロセスはそもそも不安に満ちた状態なのだと人は思うようになる。しかし、創造的緊張に伴って生まれる可能性のあるこういった「マイナスの」感情は創造的緊張そのものではないと理解することが重要だ。こうした感情は「感情的緊張(エモーショナル・テンション)」と呼ばれる。

ピーター・センゲ『学習する組織』英治出版

 特筆すべきは、センゲがこうした不安を「創造的緊張」の負の側面として語るのではなく、「感情的緊張」と名付け、混同すべきでない別のものだと言っていることだ。
 「感情」に耐えることができなければ、その解消のためにビジョンや目標の引き下げが起こる。こうした妥協について、センゲはかなり辛辣に語っている。それは「目標のなし崩し」であり「問題のすり替わり」であり、「平凡をよしとする道」であると。また「本当に創造的な人は、ビジョンと今の現実の乖離を利用して、変化のエネルギーを生み出す」とまで書いている。[2]

 センゲのいうように不安が創造性とは別のものだとして、どうすればわたしたちは目標の妥協に至ることなく、不安を退けることができるのだろうか。
 一つには、評価上の工夫があるだろう。GoogleはOKRについて「従業員を評価するためのツールではありません」と明言しているし、書籍『OKR』も「OKRを人事評価から切り離そう」と書いている。たしかに評価への影響を抑えれば、いくらかの不安は取り除くことができそうだ。
 しかし本当にそれだけで不安は抑えられるのだろうか。仕事のモチベーションが評価や報酬だけではないように、目標未達への不安も人事評価にのみ起因するわけではない。

 少し言い方を変えよう。不安から切り離された「創造的緊張」のみの状態は、本当に存在するのだろうか。
 先に「少し心配になれば、適切なKR」という表現を取り上げたように、仮に評価への影響がなかったとしても、達成に対して不安・心配・懸念を抱くのは、極めて普通のことだ。
 高い目標を設定したときに抱く不安とは、その達成へのモチベーションと不可分なのではないだろうか。そして達成したいという欲求こそが、この不安を生み出しているのではないか。

 実際にそうした不安を抱えている人へのインタビューを通して、さらにこの問題について考えてみたい。

[2] このように「感情」を耐えるもの、抑えるべきものだとみなす傾向は、生活空間でもある程度一般的なものの、ビジネスの世界では特に顕著に見られる。特に「負の感情」についてはその傾向が強く、感情抑制は今日のビジネスパーソン、とりわけマネジメント層に求められる必携のスキルとなっている。これは果たして人間の健全な在り方だろうか。詳しくは「怒りは悪いもの? 職場で生じた負の感情をどう扱うべきか」を参照されたい。

「もっとやれるのに」という罪悪感

 目標を高く持つことの心労について、リブセンスの社員の一人に話を聞いてみた。Aさんは高い目標をミッションとしつつ、ご自身は企画業務型の裁量労働制かつリモートワークで働いている。

 はじめに断っておくと、この章では目標を高く掲げることの負の側面を取り上げるが、Aさん自身は高い目標を嫌っているわけではない。高い目標が自身を成長に導いてくれたり、仕事に変化をもたらしてくれたりすることを十分に知っている。
 しかしそれでもなお、高い目標はAさんの日常生活に、ある一定の支障を与えているようだった。

「朝にコーヒーを淹れようとしたときとか。あれもこれもやっていないのに、今のんびりコーヒーを淹れていていいのだろうか、とか考えちゃって。まだ一応会社の始業時間ではないんだけど、でも裁量労働制だから仕事はできるわけですし」

 高い目標が与えるプレッシャーは、どこまでが健全なもので、どこからが不健全なものなのか区別がつかない。それがAさんの話を聞いて、最初に感じたことだ。
 話を聞く限り、ある意味で、目標は非常に有効に機能している。人を達成へと駆り立てるという点においては、満点に近い働きといえるだろう。しかし、そこには副作用もある。

「まだやれることがあるのにやれてないというのが、ストレスになるんです。まだがんばれるけど、がんばりきってない感覚があって。罪悪感ですよね。まだ余裕あるよなって。まあ割り切ってパソコンの前に座っちゃえばいいんですけど」

 ここで話された「罪悪感」こそが、評価上の工夫をいくらしたとしても、取り除けない未達への不安の一つだろう。Aさんは自身の評価の話をしているのではなく、果たすべき仕事の責任の話をしている。こういう感覚は決して特別なものではないだろう。

 続いて感じたのは、裁量労働制やリモートワークと、高い目標との決定的な相性である。これを相性が良いというべきなのか、悪いというべきなのかは、判断が難しい。
 一つ言えることは、こうした条件下で働くホワイトカラーにとっては、到達が困難な目標は、無限の労働を要求されることになりかねないということだ。
 もちろん、無法な職場でない限りは、実際に無限に働くわけではない。Aさんも常にパソコンの前に向かっているわけではない。ただし高い目標が食い尽くすのは、かならずしも時間とは限らない。Aさんはむしろ精神の余裕について、多くを口にしていた。

「正直時間ってそんなに変わらないんですよ。コーヒーを丁寧に淹れても、淹れなくても。でもそういう余裕がなくなっちゃうんです」

 そんなAさんだったが、インタビューの終わり際には「でも、やっぱり適度な目標があった方が、人生は楽しいと思います」とも語っていた。目標は薬にも毒にもなる。だったら、そこには適切な用法用量が必要である。

マインドフルネスはなぜ流行したのか

 目標へ届かないときの落ち着かない気持ちはどこからやってくるのか。そうした重圧にはどう対処すればいいのか。
 ここで参照するのは、OKRと同様にシリコンバレーで流行し、いまやiPhoneのヘルスケア機能にもその名が載っている、マインドフルネスである。マインドフルネスとは、「いまここ」で起こっている状況に注意を向けることで、心の安らぎや集中力を得る手法のことだ。

 逆にいえば、マインドフルネスが必要な状況とは、「いまここ」に意識が向かっていない状況を指す。このことをマインドフルネス認知療法では「心のモード」という考え方を使って説明する。米認知心理学者のジンデル・シーガルは、心のモードを「Doingモード」と「Beingモード」という二つに分類した。

 「Doingモード」はその名の通り、人が動作に向かっているときの心持ちを指す。先に引いた、朝ベッドから飛び起きたときにやる気が湧いた状態とは、その最たるものである。
 このモードは、理想と現実の不一致によって、自動的に起動する。「自動的」が一つのポイントだ。人は行動に駆り立てられて、半ば強制的にこのモードに突入する。Doingといっても能動的な行いではなく、受動的・衝動的であったり、ある意味では強迫的ともいえるようなDoingなのである。
 駆り立てられることの、すべてが悪いわけではない。しかし、理想と現実の不一致が、すぐには解消されないとしたらどうだろうか。OKRで立てられるような目標は、まさにそういう目標だ。
 不一致によって引き起こされる不満足感は繰り返し、長く続き、いつまでも解消することがない。そうすれば「Doingモード」からうまく抜け出すことができずに、心はつねに駆り立てられた状態になる。まさにAさんの状況そのものだ。

 シーガルはそうした状況に対し、「Beingモード」の起動を勧める。Beingとは、心がどこかあらぬ場所に向かっておらず、「いまここ」にある状態を指す。未来の懸念や心配に駆り立てられておらず、目の前の現実に没入できている状態のことだ。
 飲み会では会話を楽しむ。通勤路では風景の変化を感じとる。バスタブではリラックスする。朝はコーヒーを丁寧に淹れる。あたりまえのようでいて、忙しない仕事の合間には難しいことばかりだ。

 人によっては、「Beingモード」を退屈で非効率に感じるだろう。いつもの通勤路を歩くときに見慣れた光景に心を配るよりは、今日取り組む仕事について考えていた方が生産的だと思うかもしれない。
 しかし、マインドフルネスが国を超えて普及していった時代背景を鑑みれば、「Doingモード」の過剰な蔓延を、人類が歓迎できていないことは明白だ。わたしたちは高い生産性と引き換えに、いくばくかの不健康さを宿していたのではないか。

高い目標は万能薬ではない

 マインドフルネスはたしかに有用で、高い目標や困難な仕事に駆り立てられる人々に、精神の休養をもたらしてくれるかもしれない。現代人にぴったりなスキルなのかもしれない。しかし、それは本来対処すべき問題の根源を、対処療法で覆い隠しているようにも見える。
 これは個人的な仮説に過ぎないが、OKRとマインドフルネスは相補的に普及してきたのではないか。高い目標は休みなく人の注意を仕事へと駆り立てるが、それが続くと人の精神は疲弊してしまう。そこで、目標へ仕事へと向かう人の注意を「いまここ」へと引き戻すのが、マインドフルネスというわけだ。
 危うい状況が蔓延していれば、自己防衛の術はたしかに有益だ。しかし同時にわたしたちは、そもそも自己防衛が求められる社会の息苦しさにも目を向ける必要がある。

 頭の中で考えが巡ることに対して、勤怠をつけることはできない。しかし、大胆な目標を設定することによって上がる高い成果が、個々人の時間的ないし精神的な余裕をリソースにしているとすれば、そうした目標を課すことについては慎重さが求められる。
 注意したいのは、目標が本人にとって好ましいものであっても、この事態は解消されないということだ。むしろ好ましいものであればあるほど、仕事について考える時間は自然と増えていきかねない。それは短期的には幸福感をもたらすかもしれない。
 しかし、そうしたプライベートでの思考時間が目標達成の前提条件となっているのなら、課された目標は一線を踏み越えていると判断されるべきだろう。その構造は、舞台が職場から頭の中へと移行しただけで、やりがい搾取のひとつの類型である。

 目標を巡る旅は、ひとまずこれで締めくくりとなる。繰り返しになるが、この記事は高い目標を掲げることについて、否定的な評価を下すものではない。
 事業や業務によるところも大きいが、大胆な目標設定は、会社にとっても個人にとっても大きな恩恵をもたらす可能性が高い。また時代的な要請でもあるがゆえに、このトレンドはしばらくのあいだ続くだろう。個人の側としても、小さな改善を繰り返すより、大きな変化を起こす仕事の方が好きだという人も多いはずだ。
 しかし、高い目標は決して万能薬ではない。扱い方を知らずに闇雲に高い目標を受け入れるとき、そのしっぺ返しを受けるのは、鼓舞されてやる気に満ちたそれぞれの個人の側だということを忘れてはならない。

執筆 桂大介

正常な社会に潜むおかしなことを発見すべく記事を執筆。リブセンスでは人事を経て、現在はコーポレート全体を担当。時代にあわせた経営の形を模索している。趣味はアルコールとファッション。