マイノリティを学ぶだけでなく、マジョリティについても考えたい。
そんなことを思ったのは、発達障害をテーマにした研修の準備をしているときだった。リブセンスはここ二年くらい差別やマイノリティについて学ぶ研修をやっている。「常識を考え直すワークショプ」 という。最近では十一月に株式会社MIMIGURIの協力を得て開催した。
これまでの研修では女性について、同性愛について、トランスジェンダーについて学んできたが、今回の研修ではジェンダーを離れて、発達障害を取り扱った。
発達障害は、身体の障害とちがって、見た目にわかりづらい。本人が自覚していないケースもあるし、不得意なシーンに遭遇しなければ障害性が現れない人や、なんとか自分なりにリカバーする術を身につけてきたという人もいる。
なんの問題もなく日常生活や仕事をこなしているように周囲からは見え、人知れない苦労を抱えやすいのもこの障害の特徴である。
児童精神科医の吉川徹氏は、発達障害のある人が抱える苦労についてこう表現している。
「できる」と「できない」の間に「できるけど疲れる」ことがたくさんある
みんなが難なくできること、ちょっと気をつければできることにたいして、多大な労力を要するのがこの障害の特性だ。
こうした「できるけど疲れる」ことに対しては、周囲から努力不足、やる気不足と思われてしまうことも多く、ぼくがこれまで働くなかでも、痛ましいすれ違いを何度も目にしてきた。
他人事のように書いたけれど、ぼくもまた十分に理解できておらず、不適切な行動をとってきた一人だった。あのときもう少し自分に知識があれば、もう少し知るのが早ければ、という後悔は多い。同じ過ちを犯すまいという決意と、そういう人が少しでも減ってほしいという願意を持って研修をつくる。こういう研修に携わるときは、いつも情けなさや申し訳なさを抱いている。
本エントリではそんな研修を企画・実施するなかで、ぼく自身が気づいた「マジョリティへ目を向けることの重要性」について書いていきたい。
定型発達という症状
発達障害についての研修を企画するなかで、ぼくは何度も「定型発達」について思いを巡らせることになった。定型発達とは、発達障害ではない人たちのことを指す。いわば「ふつう」とされてきた人たち、マジョリティの人たちのことだ。
ワークショップ型の研修では、それが有効に機能するかを確認するため、本番前にテストプレイを行う。今回のワークショップでは、参加者それぞれが苦手なシーン、大変な行動などを確認しながら、自身の特性を省みることから始まった。
ぼくも運営スタッフとしてテストプレイに参加し、自身の特性について表現した。そこで現れたものは、発達障害と判定されるような傾向とは異なっていたが、いくつかの特徴を有していたことに違いなかった。
これは何を意味するだろうか。ぼくは定型発達とは、傾向を有しないことなのだと勝手に考えていたから、ふしぎな当惑を抱いた。
発達障害=マイノリティには特徴があって、定型発達=マジョリティには特徴がない。そんなふうにぼくらは考えがちだ。でも、テストプレイの結果はそうではない。定型発達とはいったい何を指しているのだろうか。
定型発達を考えるにあたって、示唆深いアイディアがある。自閉スペクトラムの当事者グループによって生み出された考えの一つで、「定型発達症候群(ニューロティピカル・シンドローム)」というアイロニーだ。
自閉スペクトラムは一般的に「思ったことをそのまま口に出してしまう」「人の気持ちを察するのが苦手」「融通がきかない」「こだわりが強い」といった性質をもつとされている。
しかし彼ら当事者グループは、むしろ定型発達にこそ困った特性があるのではないかと提起した。
曰く、自閉スペクトラムの「ふつう」とちがって、定型発達者には以下のような傾向がある。
- 暇な時はなるべく誰かと一緒に過ごしたい
- 集団の和を乱す人を許せない
- 社会の習慣にはまず従うべきだ
- はっきり本音を言うことが苦手だ
- 必要なら平気で嘘をつける
痛快な指摘だ。日本では自閉スペクトラムを説明する際に、「空気が読めない」という表現が使われることがよくある。そこに見え隠れするのは「定型発達者は空気を読む」という前提だし、さらにその背後に潜むのは「空気は読むべきだ=集団の和を乱してはならない」という規範意識ではないか。
定型発達症候群というアイディアのユニークな点は、これまで標準的、規範的、ノーマル、ふつうだとされてきた側にスポットライトをあてたことにある。定型発達や健常者は、つねに否定の形で定義されてきた。特徴がないことがマジョリティの証だった。
こうしたことは他の属性にも当てはまる。あらゆる属性において、マジョリティは積極的に言及されることがない。
同性婚という言葉は辞書に載っているが、異性婚は載っていない。発達障害にはチェックリストと診断があるが、定型発達の特徴は誰も知らない。左利きのスポーツ選手はサウスポーと呼ばれるが、右利きの選手には呼び名がない。
これまで「常識を考え直すワークショップ」では同性愛やトランスジェンダーを扱ってきたと書いたが、べつに異性愛やシスジェンダーを扱ってもよかったはずだ。シスジェンダーを勉強会のテーマに取り上げないということ自体が、差別を内包した社会のひとつの現れではないか。
マジョリティは名前がつかず、研究もされず、話題にされることがない。議論されないこと、問題にされないことが既に、マジョリティの有する絶大な特権である。
ぼくもこれまでさまざまなマイノリティについて、書籍や講義やメディアを通じて学んできたが、マジョリティについて書かれているものはほとんどなかった。マジョリティはいつも、言及するまでもない前提として描かれている。
話題にされないのは、それが標準とされているからだ。ふつうといってもいい。そして差別というのは、標準やふつうを強いるときに発生する。
ある属性でこの社会を切り取ったとき、そこに多数のグループと少数のグループがあらわれるのは仕方がない。しかし多数がいつのまにか標準になり、標準がいつのまにか規範に成り上がるならば、そこには警戒が必要である。
マジョリティ性を振り返る
障害において、障害は個人にあるのではなく、社会の側にあるのだという考え方がある。たとえば車椅子に乗る男性が、階段しかない駅で移動できずに困っていたとする。なぜそんな困難が起きてしまったのか。二つの見方を考えてみよう。
一つは障害を彼個人のものだと見なす考えだ。彼は障害を持っているから階段を上ることができない。階段を上ることができないのだから、エレベーターのある駅を使うべきだった。彼個人の抱える問題だ。こうした考えは、障害を個人の責任に帰責する。
他方で、障害を社会の側にあると見なすこともできる。
彼と駅のあいだで問題が起きた背景には、社会の作り上げた標準がある。それは高さを移動する手段として、階段やエスカレーターが一般的だということだ。
なぜ階段やエスカレーターが主流なのか。足で登り降りできる人が、たまたま大多数だからである。もし全員が車椅子だったなら、この社会に階段は存在しない。彼の直面した困難さはスロープしかない社会では存在せず、彼が階段に接したときに初めて発生しているのだから、問題は彼自身に由来するのではなく、社会に存在している。そういうふうに考えることもできる。
両者を比べてみると、前者がいかに狭量な考えか判然とするが、なかなか最初から後者を思いつくのは難しい。これこそ標準のおそろしさである。
わたしたちは、マイノリティについて学ぶのと同じくらい、自らの持つマジョリティ=標準性について、多くを知る必要がある。その眼差しをなくして、規範を解体することはできない。
今回の研修で採用したワークショップという形式は、こうしたアプローチのための、一つの有効な手段だった。
ぼくは研修の専門家ではないので、あくまで一人の受講者の感想としていうけれど、ワークショップがレクチャーと異なる点は、自らの振る舞いを点検し、内省できる点にあると思う。
ぼくや研修の受講者が考えたのは、第一に自分の特性についてであった。そして自分の特性を振り返ることで、ぼくは定型発達への違和感を覚えた。これはレクチャーの形式では難しいことだったように思う。
一応付言しておくと、知識の学びを軽視しているわけではない。今回の研修でも発達障害や合理的配慮について、専門家の監修を踏まえたレクチャーを交えていた。適切な知識を得た上で、内省の視点を持つこと。その両輪によって規範にようやくひびが入っていくのだろう。
マジョリティとマイノリティの非対称性
ここまでマジョリティのもつ標準性・規範性について述べてきたが、では、マジョリティとは誰のことなのか。じっさいは多くの事柄において、マジョリティとマイノリティのちがいは曖昧だ。
発達障害の分野では、その傾向を有しているにもかかわらず診断に至らない人を指して、発達障害グレーゾーンと呼ぶことがある。まさに人知れない苦労を抱えやすいのが、こうしたグレーゾーンにいる人たちでもある。こうしたグラデーション論はSOGI(性的指向・性自認)の議論にもたびたび現れる。
ただ気をつけたいのは、こうしたグラデーション論は使い方を誤れば、マジョリティの特権を見えなくしてしまうということだ。
一人ひとりの個人はたしかにグラデーションの上にいるかもしれない。しかし、マジョリティの集団が築き上げた標準や規範は、この社会に歴然と根付いている。
生きづらさや障害性を、グラデーションや個性のちがいでしかないとみなせば、社会は現状追認の方向に傾いていく。「自分は差別なんてしないよ。そういうの気にしないから」と安易に口にする人が危ういのは、こういう構造に無自覚ゆえである。
マジョリティは知らず知らずのうちに力を手にしている。その力は自分で手に入れたものではないから気づきづらいが、たしかに存在している。その力が差別の構造を下支えしているということを、自覚せねばならない。
わたしたちはマジョリティとマイノリティを考えるにあたって、二つのスタンスを同時に成立させる必要がある。
一つは、わたしたちは尊厳を持ったそれぞれの個人であって、そこに存在する属性のちがいが優劣を規定することは絶対にないということ。どんなマジョリティ属性やマイノリティ状態にあったとしても、誰もが等しく特別でかけがえのない存在であるということだ。
もう一つは、この社会ではマジョリティの特性が標準として規定され、ときに規範にまでなるなかで、マイノリティの人は抑圧されがちであるということだ。そこに対しては一人ひとりが等しく振舞うのではなく、マジョリティ性を持った人たちこそが、努力をもって規範を解体してゆかねばならない。
だから「みんな違って、みんないい」のようなフレーズは正しいし、間違っている。わたしたちは「みんないい」を大前提にした上で、その「違って」に潜む非対称性に目を向けなければならない。非対称性を無視したまま、そのちがいについて「みんないい」と語ることはできない。
むろんマイノリティやマジョリティというのは、ある側面におけるひとつの属性に過ぎない。人生のすべてにおいてマイノリティ、マジョリティだという人は存在しない。わたしたちにはそもそも複数のマイノリティ性とマジョリティ性が混在しており、人生の過程や、生活のシーンや、身を置く場所によって入れ替わる。
だからこそ、自らを振り返って考えたい。自分にはどんなマジョリティ性があるだろうか。どんな標準や規範に乗っかっているだろうか。その標準は誰に困難を強いているだろうか。宿題を課されているのは、マジョリティの方なのである。