2025.08.28

新卒採用を人件費の調整弁とすることについて氷河期世代が考えたこと

 今年二〇二五年、リブセンスでは一八名の新入社員を迎えた。その二年前、二〇二三年の入社人数はゼロだった。

 ベンチャー企業なら、業績に応じて採用ゼロの年があることも珍しくない。特に二〇二〇年以降のCOVID-19流行は企業にとってかつてない逆風だった。当時、日本中のすべての企業がその逆風に対する何らかの対策を取ろうとしていた。新卒採用を行わないという意思決定は、イレギュラーな外的要因に晒された企業にとって、生き残りをかけた戦略として当然取りうる選択肢だ。
 私たちも当時その真っ只中にいた。その中で「二〇二三年は新卒採用を見送ろう」という判断が下される。

 今回筆をとっている私は、人事部長という立場で採用を決める立場にいる。当時の経営判断は真っ当なものだったと思う一方で、「本当にそれでよかったのか?」という思いも残り続けている。景気の変動に対応するために、新卒採用を人件費の調整弁とすることは、果たして正しいことなのだろうかという違和感だ。
 この「何か正しくないことをしている気がする」という直感的なもやもやはどこからくるのか。善悪二元論ではなく、この事象を通じて、私たちは一体何を捉え、どのような意味づけができるだろうか。

バブル崩壊が生んだ就職氷河期世代

 昨今、就職氷河期世代の人たちへの支援が報道されている。氷河期世代とは、一九九〇から二〇〇〇年代の雇用環境が厳しい時期に就職した世代のことだ。バブル崩壊後の長期にわたる経済不況により、当時の就職市場は凍てついていた。

 私もまた氷河期世代の一人として大学を卒業し、社会に出た。幸運にも就職口にはありつけたが、当時の状況は、就職活動を行う学生数が過去最も多い世代であったにもかかわらず、企業の求人数は高度成長期以降で過去最低という厳しいものだった。大学三年生から就活を始め、一〇〇社受けるのは当たり前、二〇〇社受けても決まらない学生も珍しくなかった。

 こうした採用の狭き門を背景に、極めて企業優位の選考が実施され、いかに効率的に無数の面接を処理するかに力点が置かれていた。厳しい書類選考を通過した千人を超える学生が大きなホールに集められ、何列もの面接ブースにベルトコンベヤー方式で機械的に面接が行われる光景が当たり前の時代であった。
 私がとある企業の会社説明会に足を運んだときも、この機械的な面接が事前告知なく開始され、面接開始まで三時間以上待たされたこともあった。その理不尽な状況に、当時の私は怒りのあまり何を話したかも覚えていない。もちろん面接は上手くいくはずもなかった。

 このような企業優位の入社選考の結果、入社に至ったとしても、「仕事があるだけで幸せと思え」「代わりなどいくらでもいる」といった、現代であれば即座に問題となるであろう言葉の数々を浴びせられる環境が待ち受けていた。

 私自身が氷河期世代の一人であることも、採用ゼロへの違和感を生む要因となっているかもしれない。採用という業務は、数字の話であると同時に、誰かの人生に深く関わる選択だ。採用ゼロへの違和感の正体を探ることは、採用という営みが、一人の人生のみならず、組織、社会、そして時代とどのような繋がりを持っているのかを捉え直す作業でもある。順に紐解いていきたい。

新卒採用という「正面玄関」

 そもそも新卒採用とは一体何なのだろうか。日本の新卒一括採用は、高度経済成長期を背景に、大学生の増加と労働需要の高まりに対応するかたちで形成された。企業は若年人材を一括で採用し、社内でじっくり育成する。年功序列や終身雇用といった当時の制度と親和性の高いこの方式は、まさに「日本型雇用」の中核だった。

 この仕組みは、企業にとって人材を文化ごと育てる装置として機能し、若者にとっては、社会に踏み出すための正規ルートとして定着していった。これには当然メリットがあった。「企業は社会の公器」という言葉があるが、ビジネス経験のほとんどない学生を企業が引き受け、お金と時間をかけていっぱしの〝社会人〟に育て上げるのが新卒採用だ。新卒カードのない国では学生も大変だ。学生は自力でインターンシップ先を見つけ、そこで「我こそは実務で活躍できる人材だ」と証明しなければ、職を得ることはできない。

 その一方で、今も昔も新卒採用という枠組みへの批判はある。形式的・画一的なプロセスへの違和感や、「新卒」という一点に全てを懸けなければならない構造への疑問の声など。自己分析、ES作成、面接練習──そうした就活の型に合わせようとするあまり、自分らしさを見失ってしまう学生も多い。それでも、多くの若者がそのレールを走るのは、新卒採用が「社会に入るためのほぼ唯一の正面入り口」だったからだ。

 新卒制度は時代の要請に応じて生まれ、維持されてきた。企業・社会・個人をつなぐ三者構造として機能していたからこそ、これほど長く続いてきたのだろう。

 私が「何か正しくないことをしている気がする」と感じる要因はこのあたりにありそうだ。新卒採用を行わないという決断が、社会との接続を自ら断ち切るような寂しさを帯びていたのだと思う。それは、日本社会の基盤を支えてきた仕組みを、自社都合の論理だけで断ち切ってしまってよいのか、という問いでもある。

採用ゼロが生んだ社内外への影響

 私たちが二〇二三年の新卒採用を見送ったことで、何が起きたか。「しなかったこと」を振り返る機会はあまりないが、私は見えにくいダメージが発生していたのではないかと考える。それは、組織の内部と外部、両方にじわじわと浸透するダメージだ。
 新卒採用は社内で「経営判断」として扱われることが多い。予算や事業計画、組織戦略のなかで「今年はどの程度を採る/採らない」が冷静に検討される。だが、この経営上の判断は、社内外のさまざまな場所で想像以上の波紋を生む。

 現場では、育成の連鎖が一時途切れた。先輩社員が後輩を教え、次世代へバトンを渡すという当たり前の営みが消えると、組織の温度は微妙に下がる。入社数年の若手にとって、新卒社員は「かつての自分」を投影する存在であり、教えながら自分を省みる自己更新の機会だったことに、あらためて気付かされる。どの年に誰を迎え入れたかは、のちの企業文化や事業そのものにまで波及していく。その連続性を断ってしまったのではないか、とも思う。

 社外に目を向けよう。入社したいと願ってくれている学生がいたなら、採用ストップは悲劇だ。たまたまその年に就活生だったというだけで、希望する未来が一つ立ち消えてしまう。また、界隈から「あの会社、今年は採らないらしいよ」とささやかれる場面もあっただろう。採用関連サービスを提供する企業にとってみれば、採用見合わせは失注を意味する。

 新卒採用は、単なる入社数ではなく、社会に対して「この会社は未来をどう見ているのか」という姿勢の表明でもある。一度それを止めれば「先行き不透明」「不安定」といった印象を与える。たとえ企業がそれを否定しようとも、採用活動の沈黙は、言葉以上に雄弁だ。
 採らなかったこと自体が誤りだったと断言できるほど単純な話ではないが、採用ストップが与える負の側面にも敏感でありたい。たかが一社の判断も、積み重なれば一世代を揺るがすこととなる。

経済合理性と社会的責任の均衡

 それを如実に物語るのが「不遇と冷遇の世代」と呼ばれた氷河期世代の経験だ。その影響は長期的かつ多岐にわたっており、問題を孕んだ制度が興隆することとなったのもこの時代がきっかけだ。例えば、非正規雇用や派遣労働への流れが加速した。新卒で正社員という〝正面入り口〟から入れなかった人々は、キャリア形成機会が限定的になり、現在も負の影響を引きずっているのは多くのメディアで報道されている通りだ。
 また不況下においては「まず職に就く」ことが優先されたため、長時間労働や低賃金などが横行した。この頃、いわゆるブラック企業という概念はなかった。
 就職口にありつけなかった層の中で結婚や子どもを持つことを控えた人がいることを思えば、就職氷河期は少子高齢化の進行を助長した要因にもなっているとも言えるだろう。

 就職機会を逸した人々のその後の人生に、誰かが責任を取ってくれるわけではない。景気後退による社会の歪みがもたらす世代間の理不尽を、個人がただ受け入れるしかなかった。これは単なる時代のせいでは済まされない重みを持っている。

 新卒採用は、その時々の景気動向と密接に連動している。景気が上向けば、企業は人材投資を惜しまずに採用を拡大する。反対に、経済が冷え込めば採用は真っ先に「コスト」として見直される。
 つまり、経済合理性に従うことによって、次の氷河期世代を生み出すことに加担しているのではないか。
 違和感の正体はおそらくここにある。誰も責任を取らないまま、新たに取り残されていく世代が誕生していく。その影響は十年、二十年という単位で人生に及ぶ。そんな構造をまた繰り返すのか、という問いが胸に引っかかっている。

 一つの企業が採用を止めても、社会全体から見れば取るに足らない出来事かもしれない。けれど、その小さな判断が社会全体の流れと連動したとき、とてつもなく大きな「不均衡のうねり」になる可能性がある。
 採用ゼロという経営判断に関して、正解はない。主語に誰を据えるかで正しさなど容易に変わってしまう。ただ、下した判断にどのような副作用があるか。一つひとつの決定をするときにはせめて自覚的でいなければならない。

いま、新卒採用をどう捉えるか

 ここ数年を切り取っても感じることだが、時代の潮流は過去にないスピードで変化している。終身雇用という概念はもはや過去のものとなり、新卒・中途に関わらず、労働者のキャリアは人の数だけ存在するようになった。
 このような状況下で、企業の存在価値は「ここにいたから今の自分がある」と思ってもらえるような環境を整えることだ。たとえ終身の関係ではなくとも、一度縁を持った入社者には挑戦と成長から得られる充足感を感じてもらいたい。企業自身も進化し続けなければならないのだ。

 AIによる労働力の代替が進んだとしても、人が働くという普遍的な原理は今後も存続するだろう。だとすれば、新卒採用という枠組みが一人ひとりの人生に与える影響は、大きなものであり続けるはずだ。

 個人的な思いを言えば、私は新卒採用が好きだ。これから社会に出る大勢の若者たちが、新しい人生の重要な一歩となる会社を探し求め、喜び、共感、不安、時には理不尽さすら経験していく就職活動。学生から社会人への大きな転換点であるこの時期に、彼らが「働く」という営みに希望を見出そうとする姿には、心を動かされるものがある。
 日本特有のこの就職活動というプロセスは、単に形式的なものとして片付けられるべきではなく、私はむしろ、人生における豊かな学びの機会であると捉えている。

 時代の変遷を踏まえ、私自身の仕事を改めて問う。昭和的な価値観も併せ持つ私にとって、新卒採用とは、家庭の枠組みから飛び立とうとする大切な子息子女を、共に社会に貢献する仲間として責任をもって迎え入れることでもある。採用を単なる業務や計画の一部ではなく、「誰かの人生のはじまり」と捉える視点を決して失ってはならない。

 人事という仕事をしていると、そういうたった一つの人生のはじまりに何度も立ち会うことになる。私はこれからも、新卒採用という営みに責任を持ち、未来に希望を託していけるよう、そうした機会をつくり続けていきたいと思う。

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