2024.12.25

役職に就き続けることは若手の成長機会を阻んでいる? ベンチャーでキャリアを重ねた四〇代の葛藤

「二〇代・三〇代が活躍できる組織が理想だよね」

 社長がこう言った。会社の中期人事戦略を考える会議中のことだ。参加者は私も含めてみんな同意した。若い人が活躍できる組織というのはすなわち、年功序列に縛られずチャンスを得られ、フラットにものが言える環境であるということだ。

 しかし、その言葉に動揺する自分もいた。リブセンスに入社してから一〇年。私はすでに四〇代に差しかかっていたからだ。「四〇代はいらない」と言われたわけではないし、社員には長く在籍してほしいという社長の思いも知っている。それでも、自分が理想の年齢を超えた存在であるというどうにもならない事実に、なんとも言えないもやもやが残った。

 自分の存在が、若手の成長機会を奪っているのではないか――。その問いが胸の中に居座り、今のままでいいのかと揺さぶってくる。

「人は年齢じゃない」。そうは言うけれど、年齢も性別や人種のように自分を表す記号であるのは紛れもない事実で、その枠組みが社会から消えてなくなるわけでもない。四〇代からのキャリアは、自分を中心に考えてはいけないのだろうか。本稿では、年を重ねた者の職場でのあり方を考えていきたい。

自分も老害になっていないかという漠然とした不安

 昨今、労働市場では年齢に対する考え方が変わりつつある。人生百年時代とも言われ、シニアになってからの挑戦やリスキリングも推奨されている。かつては「三五歳転職限界説」という言葉があったが、以前と比べれば三〇代・四〇代での転職もしやすくなった。

 私は普段人事として採用にも関わっているが、経験やスキルに基づいてレジュメを評価することが当たり前になってきている。採用の常識にも変化がみられ、年齢などの属性よりも組織に与える価値で評価される時代になってきていると感じる。

 一方で、年齢や世代に対するラベリングは、むしろ以前よりカジュアルに行われている感覚もある。Z世代、ゆとり世代、ロスジェネ世代など、特定の世代群を表す呼称はいつの時代も耳にする。テレビでは昭和と令和を比較する特集が組まれ、ドラマ『不適切にもほどがある』では、バブル期を知らない若い世代向けに当時を面白おかしく描き、流行語大賞まで受賞した。

「老害」という言葉も、今やメディアやSNSで見ない日はないくらいだ。私からすれば四〇代はまだ老害と呼ばれる対象ではないと思っていたが、五〇代に突入した放送作家の鈴木おさむ氏が「自分も老害になっていた」と発言し、放送作家を引退したくらいから、ミドルシニア世代は自分も老害になっていないかと恐れを抱き始めたのではないだろうか。

 特にテクノロジーの進化が速いIT業界においては、年齢や世代によるギャップが顕著であり、そこで生じる緊張感は否定できない。年齢を重ねて得られた経験や知識が組織に貢献していたとしても、若手の柔軟な発想や新しい感覚のほうが、最適解を導き出せるのではないかと感じる場面も少なくない。

 私自身、これまでの経験を活かして組織に貢献している実感がある一方で、自分の言動が若手の可能性を摘んでしまっているのではないかと不安を抱えることがある。むしろ若手に任せたほうが面白い答えが生まれるのかも――。そんな感覚は、三〇代の頃にはなかった感覚である。

 四〇代の自分はどうするべきなのか。組織や社会にとって何が最善なのだろうか。

自分のやりがいを優先するか、後進に道を譲るのか

 私は現在、人事に関する取り組みや部門の運営、メンバーマネジメントに携わっている。当社での一〇年間、事業責任者や人事部長として部の責任者を務めてきた経験を活かしながら、変化の激しい人事領域の現場に関われる今の役割には大きなやりがいを感じている。
 年齢に伴う能力の衰えはまだ感じておらず、社内における自分の存在価値が下がったとも感じていない。むしろ、会社が好きで、人事という仕事が自分に合っているという確信がある。だからこそ、今の立場でさらに経験を積みたいと考えている。

 三〇代の一〇年間で多くの経験を積み、成長する機会を自分に託してくれた会社には感謝している。同じように、メンバーにも機会を通じて自身の成長につなげてほしいと心から願っている。

 しかし、ここでひとつの葛藤が生まれる。自分の「好き」や「やりがい」を優先し、今の立場に居続けることで、メンバーに私のポジションで得られる成長機会を譲れないという現実だ。組織の成長サイクルを生み出すべき人事の役割として、これでいいのかと葛藤することがある。

 一方で、自分を抑えて組織や他者を優先することが本当に最善の選択なのかという疑問もある。自分の人生はこれからも続いていく。後悔しない人生を歩むためには、仕事における充実感が必要だ。自分の情熱を諦めてまでポストを譲ることが本当に正しいのか、またその決断が組織全体にとって最良の選択なのかの確信は持てない。

 次世代にバトンを渡すべきか、それとも自分の役割を果たし続けるべきか――。このジレンマは、若手社員の成長機会とシニア社員の役割のバランスをどのように取るべきかという唯一の答えのないテーマであり、まさに「鶏が先か、卵が先か」のような関係に感じる。

 この問題を考える際に、役職や権力を持つ人は、現状を優先しがちになる「現状維持バイアス」や「サンクコスト効果」に陥りやすいことにも自覚的であるべきだろう。「せっかくここまで昇進したのだから」と現状維持が最も合理的で居心地の良い選択だと感じ、自分の存在意義を過大にする傾向が強まるのだ。当然だが、この考え方が行き過ぎると、目的を見誤る。自分や会社の成長以上にポジションへ執着し、他の選択肢を排除してしまう。

 とはいえ、住宅ローンや家族の養育など背負うものも多いこの世代が、みすみす今のポジションを手放し、何の保障もない次の挑戦に向かっていくのもハードルが高い。ミドルシニアになると、昇進の頭打ち感に悩む人もいる。老害と言われる恐怖と戦いながら、今の立ち位置を守りたいと思ってしまう気持ちもまた人間のリアルで、責められるものではないと感じる。

役職定年制の副作用

 この課題に対する代表的な解決策に「役職定年制」がある。一定の年齢に達した社員が役職を退き、若手にポストを譲るこの制度は、組織の新陳代謝を促進するとともに、シニア社員に新たなキャリアを考える契機を提供することを目的としている。

 ただし、この制度には負の側面もある。シニア社員にとってみれば、役職定年はまさに年齢で一括りにされ、役職と年収の何割かを剥奪されるイベントだ。そこでキャリアの再構築と言われても、モチベーションの低下は免れないだろう。

 こうした負の側面に焦点が当てられたことが影響しているかは定かではないが、最近では役職定年制を導入している企業は徐々に減少傾向にあるようだ。二〇二三年に人事院が公表した民間企業の勤務条件制度調査によると、「役職定年制がある」と回答した企業は16・7%で、二〇〇七年の23・8%から減少していることが分かる。

 背景には少子高齢化による若手人材の不足が大きい。若手への「譲渡」が難しいなら、年齢に関係なく能力や成果で評価し、適材適所で抜枠するという流れにならざるを得ないからだろう。このように、若手への成長機会とシニア層の役割のバランスをどう取るかについてはどの企業も頭を悩ませているようだ。

世代で人を語る「わかりやすさ」の代償

 もう一つ、年齢という枠組みで人を語ることで、失われるものがあることにも触れておきたい。「世代」という大きなラベルで人を説明しようとすることで、個々の多様性を見落とす危険性があるということだ。もちろん世代において特徴や傾向があることは否定できない。生まれ育った環境がその人の価値観に大きく影響を与えるのであれば、学校教育やメディアの在り方、テクノロジーの発展などその時代の空気感が「世代観」なるものを生んでいるのだろう。

 一方で、「イノベーター理論」で語られるように、どの世代にも新しい挑戦を恐れないイノベーターがいれば、変化に慎重なラガードもいる。同様に、性格診断で示されるような冒険者タイプの人もいれば、秩序を重んじる管理者タイプの人も存在する。それぞれの世代にはこうした多様性が内在しており、一つの特徴で全体を括ることはできない。結局のところ、性格や価値観は年齢や世代だけではなく、その人固有の経験や環境、選択など、無数の変数が絡み合って形作られるのだ。

 とはいえ、ラベリングには一定のメリットも存在する。たとえば、採用活動において候補者のペルソナを描く際には、「世代」という枠組みが参考になることがある。また、マーケティングの場面でも、世代ごとの嗜好や行動パターンを理解することで、ターゲットに合わせた戦略を立てやすくなる。ただし、ここで重要なのは、そのラベルはあくまで便宜的なものであり、絶対的な真実ではないという認識だ。その認識を欠いてしまうと、目の前にいる人の個性や可能性を見落とす危険性がある。

 四〇代という世代を語るとき、「安定を求める」「新しいことに消極的」といった固定観念が付きまといがちだ。しかし実際には、新しいことに積極的に挑戦する人もいれば、安定を重視しつつもその枠内で創意工夫を続ける人もいる。年齢や世代に紐づく偏見や先入観が、こうした多様な側面を覆い隠してしまう。属性でその人を語るのではなく、その人自身がもたらす価値を見極める視点が、これからの時代にはより一層求められる。

 そもそもラベリング自体には、良いも悪いもない。ただ、私たちがそのラベルを使うときには、その奥にある人間の多面性や複雑さを忘れないことが何よりも大切だ。そうすることで私たちはより自由に、そしてより広い可能性の中で人々と向き合えるのではないだろうか。

「若手が活躍できる職場」から四〇代は除外されない

 四〇代は職場でどうあるべきか。この問いに答えはない。四〇代にもさまざまな人がいるのだから、答えなど存在しえない。しかし、一つ確かなことに気づいた。それは、二〇代・三〇代が活躍できる組織は、四〇代にとっても活躍できる組織であるということだ。「二〇代・三〇代が活躍できる組織が理想」なのではなく、「年齢にかかわらず活躍できる組織が理想」というのが、冒頭の社長の発言の真意だろう。

 若い世代が「経験不足」という理由で活躍の機会を制限される場面があるように、四〇代以上の世代も「もう旬を過ぎた」と見なされ、同じように機会を奪われることがある。「あの人は若すぎるから無理だ」と「年齢的にもう無理かも」は、実は同じ問題であり、年齢に対する偏見の裏表に過ぎない。

 こうした年齢や世代に基づく固定観念は、組織の成長や個人のキャリア形成を阻む大きな壁となる。年齢はパフォーマンスを左右する重要ファクターなのか。まったく関係がないとまでは言わないが、組織にとって本当に必要なのは、年齢ではなく「その人がどんな価値をもたらすのか」という視点だ。属性ではなく、その人の能力や意欲、そして可能性を信じて機会を与える――。そんな姿勢こそが重要である。

 私たちは年齢という概念を手放すことはできない。しかし、固定観念を溶かすことはできる。四〇代以上が持つ豊富な経験や知識は、若い世代の挑戦を支える土台になり得る。同時に、若い世代が持つ新しい視点やアイデアは、シニア世代に刺激を与え、互いに学び合う関係を築くことができる。公平に機会を得られる組織は、保守的な空気を打破し、変化を促すスパイスとなるだろう。

 多様性が叫ばれる現代だからこそ、年齢や世代というラベルに頼った効率的な判断だけではなく、一人ひとりの複雑な内面に目を向けることが重要だ。それには手間も胆力も必要だが、その過程で生まれる対話や工夫こそが、組織や社会を前に進める第一歩になるのだと思う。

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