「女性活躍推進」という言葉に、あなたはどういう印象を抱くだろうか。女性も仕事を辞めなくていい、女性も管理職になれる、そういうポジティブな印象を持つ人が多いのでは。
仕事において女性であることが不利に働かないことは、当たり前のようで当たり前ではない。少なくとも、五〇年前は「結婚したら退職」が当たり前だった。その時代、女子は四年制大学にいくと就職に不利だからと、学力が優れていても短大を選ぶのがふつうだった。一般職として入社した職場では、総合職のサポートや事務作業ばかりの雑務をするのがふつうだった。それが、男女雇用機会均等法だったり、女性活躍推進法だったり、人々の努力の積み重ねによって今日の姿がある。
けれど、こう思ってしまうのはあまのじゃくだろうか。女性は「活躍」を強いられている。女性は、社会や企業に「推進」してもらわなければ「活躍」できない。そう言われているような気がしてしまうのだ。
社会がジェンダー平等に向かうことは諸手を挙げて歓迎したい。それでも、女性活躍推進にはどうもしっくりこない。女性を応援している体裁で、女性の生き方を規定しているような矛盾を感じてしまう。今回は、女性活躍推進に感じるもやもやの正体を考えていきたい。この記事を執筆するわたしは女性だが、他の女性や、男性も同じように感じることはあるだろうか。
誰のための女性活躍推進なのか
今、多くの企業が、女性活躍推進の文脈で女性の管理職比率の数値目標を掲げている。二〇三〇年までに、管理職の三割を女性にと息巻いている。それに最近、従業員数一〇一人以上の企業は男女の賃金の差異を公表することも義務づけられた。開示義務を負うことで、世間の監視のもと、賃金格差を縮める作用を期待した施策なのだろう。
ここで気になるのは「女性活躍」が指すものが限定的であることだ。本来、人の数だけ活躍の形があるはず。接客を得意とする人、プログラミングを得意とする人、マネジメントを得意とする人、育児を得意とする人。それぞれに活躍の定義は異なるはずなのに、女性活躍推進の文脈になった途端、多様なナラティブが一つに収斂されてしまう印象を受ける。管理職になることや、稼ぐことが活躍であるかのように。
マクロで見れば、意思決定層に女性を増やすのは大事なことだ。集団におけるマイノリティは抑圧されやすい。多様性のある組織のほうが、現代社会においては成果につながりやすいとも言われている。マイノリティが抑圧を感じづらくなる分岐点が三割。管理職比率で三割を目指すことは理にかなっていると言える。
このように、社会的に女性の登用が必要であることはわかる。けれど、それこそがもう一つの違和感につながっている。もともと、女性の社会進出は「女性の権利拡大」の文脈だった。それがいつの間にか「労働力の補填」や「経済的合理性」の話にすり替わっていないだろうか。日本は人口が減る一方だから、女性にも高齢者にも働いてもらわないといけない。多様な組織のほうが成果につながるから、女性の割合を増やさなければならない。その文脈において、誰が主語になっているかといえば「社会」であり「会社」であり、もはや「女性」ではなくなってしまっている。女性が手段にされているような違和感なのだと思う。
女性の社会進出は本当に進んでいるのか
とはいえ、経営層や管理職に女性が増えること自体は歓迎している。ただ、現実は厳しいようだ。「二〇二〇三〇」という、政府による二〇二〇年までに女性管理職比率を三割にする目標は未達となり、あっけなく三〇年に延期された。ここからは、女性が出世していく上で障害になっているものは何なのかを考えたい。
まず現状として、正規雇用かつフルタイムで働く女性は、実は昭和の頃から増えていない。内閣府の男女共同参画白書によると、女性の就業率は年々上がり、見かけ上は女性の社会進出が進んでいるが、減少する専業主婦の割合に反比例して増えているのは非正規雇用だ。新卒採用では女子の採用を抑える「女子フィルター」の問題もある。さらに四〇年前も今も、結婚している女性の正規雇用の割合は三割に満たない。入り口も狭ければ、継続も難しいのが実態だ。
なぜそうなっているかというと、家事や育児の主な担い手が女性である現状が昔から変わっていないからだ。日本は家事や育児、介護は女性が行うものという意識が根強く、子どもが生まれたり親の介護が必要になったりすると、離職して対応するのはほとんどの場合が女性。それゆえに企業も女性の採用に慎重になる。
最近は、産後パパ育休が制度化されるなど、男性が育休を取得する動きが活発になってきた。それでも、男性が育児や家事のメイン担当を担うケースは稀だ。実際、夫婦ともに育休が終わったとき、働き方をセーブするのはほとんどが女性。夫側のほうが年収が高いから、妻側が時短勤務にするほうが合理的だと考える家庭が多い。家事代行やシッターの利用もできる。でもそれらを利用することさえ後ろめたさを感じるのもまた女性。家庭のルールはそれぞれの家庭が決めればよい。それでも、これほど家事・育児の役割が女性に偏っているのはバイアスも大いに影響しているだろう。
育休が終わった後、時短勤務を選択するのは誰か
バイアスに手をつけなければ、いくら法整備が進んでもジェンダー平等の土壌は築けない。「女性=家庭」というバイアスに加え「男性=大黒柱」というバイアスも見過ごせない。
リブセンスの人事部に所属する女性社員Aさんは、現在二歳の子どもを養育しながら時短勤務をしている。Aさんの夫は、子どもが生まれて育休を一ヶ月取得した。そのことにとても感謝していると話す。
「ただ夫の場合、育休中に自分が不在でも仕事が回るようになっていたので、キャリアを考えて転職することになりました。夫は『年収を下げずに、子育てもがんばらなければ』というプレッシャーに葛藤しているようです。転職後は出社が増えて、平日の家事・育児の比率はわたしのほうが多めなのですが、時短勤務にして年収が下がっている分、夫には年収をキープしてもらったほうが家計的にも安心です。バランスの難しさを感じています」
家を守らなければと思う女性。経済力を維持しなければと思う男性。誰かにそうしろと指示されたわけでもなく、自然とそうなっていくのがバイアスの影響力だ。
さらにこんな話もある。夫婦ともにフルタイムで仕事をしていても、夫側の給与額のほうが高いことを理由に、妻側の家事・育児の比重が大きくなるケースだ。同じだけの時間で働いているのに、「家にお金を多く入れている」ことが家事をしないことの免罪符になっているという話も珍しくない。稼いでいる側がそう明言しなくとも、給与が少ない側が申し訳なさから家庭内の負担を自ら引き受けているパターンも多いだろう。男女の賃金格差は、家庭内のパワーバランスにも影響してしまうのだ。
この現状を踏まえて女性活躍を掲げるなら、バイアスに挑むほかない。年収の減少を許容したうえで、男性にも家庭進出をしてもらう。そして、女性もフルタイムや出世に挑んでいく。大黒柱も、家庭運営も、夫婦で分かち合う。そういうあり方をふつうに選べるようにしなければ、一般に言うところの「女性活躍」は進まないだろう。
制度があると「この会社に恩返ししたい」と思える
もう一つ、女性活躍を推進する上では、男女の身体的なちがいを理解しておく必要がある。生理、妊娠、出産、更年期症状など、女性はホルモンバランスの影響から逃れられない。これら女性特有の身体的問題への合理的配慮は、活躍推進とセットでなければならない。昨今、不妊治療をしながら働く女性も増えている。
課題の解消に当たっては、企業側は女性社員のニーズを把握しづらく、何を取り組めばいいか分からない状況が生じている。生理も不妊治療も更年期症状も、センシティブなテーマであるがゆえに、女性も企業へ申告しづらい。最近は、社会的にフェムテックへの関心が高まっている。更年期の不調に向き合う商品など、ラインナップは増えている。こうした外部の商品サービスを頼るのも一つの手立てとなるだろう。
リブセンスにもさまざまな制度がある。有給の生理休暇があったり、保存有給を家族の看護や不妊治療に利用できたりと、社員からも好評だ。会社の制度が「ここにいていい」と思える居場所感につながり、会社と社員の心の距離が近づくメリットがあると思う。
わたし自身も、急な体調不良や妊娠中の不調でも、時間に融通が効くことがありがたかった。特に育休から復帰した後は、子どもの突発的な体調不良に理解ある環境であることに何度も救われた。在宅保育をしながら仕事ができることで、有休がなくなる不安から逃れられた。会社が寄り添ってくれている実感は、会社のためにがんばろうというエンジンになる。周囲の女性社員も、PMSや不妊治療といった女性ならではのイシューをサポートする制度があることで「会社に恩返ししたい」という貢献意欲につながっていると話していた。
「女性自身が昇進したがらない」は本当か
ところで、女性の管理職比率の話になるとよく「女性自身が昇進したがらない」という声を聞く。これについて、わたしは半分合っていて、半分まちがっていると思う。女性たちが家事・育児をメインで担っているために、管理職になることの負担感を大きく感じやすいという点では、管理職を忌避するのも不思議ではない。一方で、その負担感を差し引いたときに、女性たちが心から管理職を忌避しているのかといえば、そうではないと思う。「管理職になりたくない」という気持ちには過去の刷り込みも大いに影響しているはずだ。
「管理職になって責任は重くなったのにプレイヤー時代より給与が下がった」「上司と部下の板挟みになってつらい」。そんなマネージャーの苦悩を見聞きしていれば、管理職に挑戦したいとは到底思えない。「管理職の罰ゲーム化」という表現さえある。さらに現職のほとんどが男性で、ロールモデルが不在な場合、「自分に務まるだろうか」と疑心暗鬼になるのも自然な反応だろう。
管理職という仕事が、本当に責任が重い割に実入りが少ない役割であるなら、男性だろうが女性だろうが引き受けたくない。ただ、わたしの実感として、管理職の仕事はそんなに悪いものでもない。一年ほど前、わたしは上司からマネージャーの打診を受けた。即答はできなかった。二人の子どもを養育しながら、やっと仕事とのバランスを保てるようになってきたばかりの時期で、両立できるか不安だった。そのとき上司が「両立に悩んでいるのなら、みんなでサポートできる。業務内容に不安がないなら大丈夫」と背中を押してくれた。
あのとき、飛び込んでみてよかった。今では心からそう思う。仕事の難易度が上がり、プレッシャーは大きくなったけれど、マネージャーとしての自己成長に加えて、視座が高まった。経営視点で物事を見ることができるようになった。仕事における主語が「自分」だけでなく「グループ」になった。部下の成果を自分のことのように喜べるようになった。こういうやりがいは、打診を受けたときにNOと答えていたら得られなかったものだ。
女性が昇進したがらないことの解像度を上げると、断固拒否しているというより、女性自身が「できない」と思い込んでいるケースもあるのではないかと思う。任命する側は「できない」を紐とき、本当はやってみたい気持ちがないかを丁寧に確認してみてほしい。そして、任命するに至った理由をぜひ伝えてほしい。
「なぜわたしが任命されたのか」と訝しがる女性は少なくない。女性活躍推進の御旗のもと、数合わせで登用されたのだと邪推されることもある。女性枠にあてがわれたという認識は、かえって自信を喪失させる。これは数値目標を掲げることの負の側面だろう。管理職に抜擢されたのは、自分の努力の積み重ねであると本人が納得できるよう、任命側は言葉を尽くしてほしい。「あなたという個人を評価している」と。そうすることで女性たちの「できない」という思い込みがほどけるかもしれない。
「女性活躍推進」を過去の言葉にするために
ここまで管理職登用の話をしてきたが、すべての女性が管理職を目指すべきだとは全く思わない。それは男性も一緒だ。男性だからといって上を目指さなければならないわけではない。
ただ、挑戦して初めて見える世界はある。物事の本質は、やってみるまでわからない。自信のなさ、周囲の目、家庭との両立。好機が巡ってきたときに「やってみたい」を阻害するハードルが多いのが女性。だからこそ女性は活躍が推進されているのだろう。
冒頭に戻るが、活躍の形は人の数だけある。それは管理職であるかもしれないし、そうでないかもしれない。それぞれが定義できる。この記事を書き進めるうちに、わたしの中にもバイアスがあると気づいた。その背景には、幼少期に周囲の大人たちから言われていた「女の子なんだから」という常套句があった。女の子なんだから一歩下がって。女の子なんだから家事ができないと恥ずかしい。もちろん悪意はなく、当時はそれが当たり前の躾だったと理解しているけれど、染みついた意識を変えるのは大変だ。それでも、バイアスに気づけば行動を変えられる。
自分が理想とする働き方の実現に、性別は限定されない。働きたい人がいきいきと働けて、挑戦できて、働いている自分を好きでいられる社会にするために。「女性活躍推進」も「イクメン」も過渡期の言葉だ。これらの言葉がなくなったときが、本当に女性が活躍している社会なのだろう。