2026.10.09

休憩時間はなぜ六十分なのか?

 パソコンの画面右下の時計を見ると、正午を過ぎている。リモートワークをしていると、周りに誰もいないからいつの間にか時間が過ぎていることも多々ある。午後の予定を確認してからパソコンを閉じて、お昼休憩に入る。近所のコンビニでご飯を買い、帰宅してワイドショーを見ながら手早く済ませる。食器を洗い終えたら残りの休憩時間を確認して、リビングでもう少しゆっくりするか、午前中のうちに乾燥が終わった洗濯物を畳んでしまうか、あるいは急ぎ片づけたい仕事に取り掛かるために早めに休憩を終えるか考える。平日のお昼はだいたいこんな感じだ。

 過ごし方は人それぞれだが、私の場合は「もう少し休憩時間が長かったらな」と感じることもしばしばだ。そこでこんな疑問が浮かぶ。そもそも、休憩時間ってどうして六十分なのだろうか?

 一日あたりの休憩時間は六十分または四十五分と定められている企業は多い。一方で、どうしてこの時間なのか知っている人はどれくらいいるだろうか。今回は、休憩時間はなぜこの時間なのか、そもそも休憩とは何なのかを考えてみたい。

休憩時間の法的な枠組み

 まずは休憩時間に関する基本的な情報を整理したい。休憩時間はなぜ六十分なのか。一言で言えば、法律で定められているからだ。労働基準法では、一日の労働時間が六時間を超える場合は四十五分、八時間を超える場合は六十分の休憩を取ることが義務付けられている。厳密に言えば、労働時間が八時間ちょうどであれば四十五分で問題ないのだが、ちょっとでも超えるとさらに十五分の休憩が必要となるため、六十分としている企業も多いようだ。

 休憩に関するルールは他にもある。お昼に休憩が取れなかった分だけ終業時間を早めることはNGであり、必ず労働時間の間に設ける必要がある。あるいは、同僚に気を遣って休憩が取りづらくならないように、職場の全員が一斉に取らなければならない。他にも、休憩時間をどう使うかは労働者の自由としなければならない。途中付与・一斉付与・自由利用、この三つが休憩の原則だ。

 もっとも例外もある。例えば一斉付与の原則は、運輸交通業や接客娯楽業など対象外となる業種もあるし、その他の業種も労使の間で協定を結べば除外できる。昨今、話題にのぼることもある裁量労働制が適用されている労働者も、休憩の規制は同じように適用されるが、実務上は労使協定で一斉付与を外していることも多いようだ。

休憩時間が定められた歴史的経緯

 では、どうして労働基準法で休憩時間が六十分ないしは四十五分と定められているのか、歴史的な経緯も見ていきたい。

 もともとは労働基準法の前身である工場法の中で、一九一一年の制定当初から、適用対象者に制限はあったものの就業時間が六時間を超える時は三十分、十時間を超える時は一時間の休憩を設けることが定められている。それまで、労働者を休憩なしで一日中働かせたり、病気でも休みを認めなかったりする工場が存在しており、健康被害や生産効率の低下などの影響が出ていたことを踏まえて、法律で休憩の取得を義務付けた格好だ。

 工場法を起草した農商務省官僚の岡實によると、十時間の労働に対して約三十分、十二時間の労働に対して約一時間という当時の一般的な工場における休憩時間の実態に近い形で、全国一律の最低ラインを定めた経緯がある。※1

 戦後、工場法を引き継ぎながらも、労働者の保護水準を大幅に高める形で労働基準法が制定された。休憩のルールは前述の通り「労働時間が六時間を超える場合は四十五分、八時間を超える場合は六十分」だが、制定に携わった厚生省労働保護課長の寺本廣作によると、八時間ちょうどの時の休憩時間が六十分ではなく四十五分となったのは、当時の工場での一般的な働き方を適法化させるための措置だった。※2

 具体的には、二チームで交替しながら工場を稼働させるにあたり、一チームが六十分の休憩を含めた九時間の稼働だと、午後十時から午前五時までの深夜勤務禁止の規定に抵触してしまう。そこで、休憩時間を四十五分としつつ、同時に深夜労働について三十分延長の例外規定を設けることでクリアしたという訳だ。

 以上の通り歴史を振り返ると、労働者の健康を守るという前提は変わらないものの、具体的な休憩時間の根拠はその時々の時代状況や政策的背景などを踏まえて設定されてきたものだと分かる。

必要なのは解放ではなく回復

 休憩時間は労働者の健康を守るために存在している。一方で、法律の趣旨や歴史的経緯は理解しつつも、どこかズレを感じてしまう。果たして、法律を守れば健康は守られるのだろうか。仮に守られるとして、それで十分なのだろうか。ここでもう一度、現代における休憩時間の意味合いを考えてみたい。

 労働時間および休憩時間の考え方を示した大星ビル管理事件(最一小判平成十四年二月二十八日)という判例がある。ビル管理業務を行う会社に勤めていた原告は、月に何日か二十四時間勤務を行っており、その日は勤務時間中に休憩時間に加えて仮眠時間が与えられていた。しかし、その間も外出は禁止され、電話対応などが義務付けられていた事案で、仮眠時間も労働時間にあたると原告は提起している。

 判決では、労働時間は「労働者が使用者の指揮命令下に置かれている時間を指すものであり(中略)いかに仮眠時間として定められていたとしても労働からの解放が保障されていない場合には労基法上の労働時間にあたる」として原告の訴えを認めた。実務上、何が休憩時間に該当するかの判断は簡単ではないケースもあるが、要するに「労働から完全に解放されているかどうか」を基準とする考え方である。

 たしかに労働から解放されていれば休憩とみなすのは個人的にも納得感がある。ただ、違和感もある。解放されている、とは具体的にどういう状態だろうか。例えば、休憩中も仕事や職場の人間関係のことが頭から離れない、という経験がある人もいるのではないか。終業後にしても、身体的には労働から解放されている。誰かから仕事上の指示を受けている訳でもない。でも、今日あった嫌なことをどうしても思い出してしまい心が休まらない。明日も仕事だと思うと鬱々としてしまう。果たしてこれは「解放されている」と言えるだろうか。

 つまり、たしかに法律は労働からの物理的な解放は担保してくれるが、精神的な解放までは担保してくれない。もっと言えば、我々に本当に必要なのは解放ではなく回復ではないか、と思うのだ。例えば散歩をしてリフレッシュしたりお昼寝をしたりするなど、スマホで言えばバッテリーを充電することが重要なのではないか。そうしないと、例えば休憩時間中に家事をして余計に疲れてしまう、なんてことも起こり得る。

 ただ難しい点もある。どうすれば回復するかは人によって異なるし、休憩時間で回復するにしても必要な時間の長さは人それぞれだ。そもそも、休憩時間中にできることなど限られているから休憩時間を短くしてその分早く終業したい、と思う人もいるだろう。解放と回復を分けて考えることは有用だが、一日全体の中でどう配分するのが良いかは一概には言いづらい。

足りないと思っていい

 冒頭に書いた通り、私は昼休みが足りないと感じることがある。食べて、戻って、頭を切り替えるのに六十分では物足りない。そう感じるたび、自分の要領が悪いのだと思っていた。

 でも、そうではないのかもしれない。六十分は、私に必要な時間として測られた数字ではない。百十年前の工場の底値であって、上限ではないのだ。労基法にも「少なくとも」と書いてある。

 法律は全員に同じ線を引くことはできるが、それは私にとっての最適解ではない。自分にとって必要な休息がどれくらいなのかは、結局のところ自分で判断するしかない。気を抜くと画一的な働き方に押し込められてしまうが、あくまで自分の人生の手綱は自分が握るのだ、と頭の片隅に置いておきたい。

 明日の昼も、たぶん六十分で席に戻る。ただ、この数字が「誰かがそれ以上は削らないと決めた線」なのだと知っている自分は、少しだけ違う昼休みを過ごすのだろうと思う。

※1:岡實『工場法論』有斐閣、一九一七年、四二二〜四二三頁

※2:寺本廣作『労働基準法解説』時事通信社、一九四八年、二三〇〜二三一頁

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