2020.12.21

利き手というダイバーシティ

 あなたは、「キリン」、「ゾウ」という言葉を聞いて、何を連想するだろうか? 「動物」あるいは「動物園」を想像した人も多いのではないだろうか。では「キリン」の次に「アサヒ」と続いたらどうだろうか? 今度は「ビール」を思い浮かべた人もいるだろう。

 「ダイバーシティ」、「十人に一人」という言葉ではどうだろう? ダイバーシティに関心がある、あるいは少しでも学んだことがある人であれば「日本人の中でのLGBTの割合」と考えたかもしれない。それも合っている。ただ今回は、十人に一人いると言われ、ダイバーシティの文脈からは得てしてこぼれ落ちてしまいがちな「左利き」について考えてみたい。

左利きの人は、差別されている?

 洋の東西を問わず、左利きの人の割合は概ね人口の一〇%前後であると言われている。古代の壁画や石像で描かれている人間を見ても、右利きが圧倒的に多いようだ。利き手を決める要因については、遺伝や環境など様々な見解があるが、そのメカニズムはまだ明確には分かっていない。

 歴史的には、左利きの人が差別されていた経緯もうかがえる。かつては左利きを身体障がいや知的障がいの一種であると考えていた人や地域もあった。例えばインドや中国では、左手は不浄の手であるとして、左手で食事を取ることはマナー違反とされている。日本に目を向けても、左利きの人を指す「ぎっちょ」という言葉は地域によっては差別用語に該当するし、今でも使われる「左遷」や「左前」という日本語はネガティブな意味を持っている。

 ただ、私のこれまでの人生においては、左利きの人が差別やいじめに遭っている場面を見聞きしたことはなく、「左利きの人は差別されている」と言われてもあまりピンと来ないのが正直なところだ。

 一方で、世の中を見渡してみると、数多くの道具が右利き用に作られていることに気が付く。例えば、ハサミや、自動販売機のお金の投入口などがそうだ。他にも、ワイシャツのボタン、スポーツの道具、急須、包丁、スマホケースなど、挙げれば枚挙に暇がない。また、学校の教室では、右利きの人から見て自分の手の影で文字が見えづらくならないように、窓が教室の左側に配置されている場合が多い。

 そういった意味で、現代の日本社会においても、左利きの人は差別はされていなくとも、抑圧を受けているとは言えるかもしれない。

リブセンスの従業員へのヒアリング

 リブセンスの従業員で左利きの人にも、左利きであることが理由で抑圧を受けた経験があるか話を聞いてみた。

 「自分の場合は、ものごころがついた頃には右利きに矯正されていた。周囲と違うことを初めて意識したのは、小学校で友達とドッジボールをしていて、自分だけ左手でボールを投げていた時。ただ、劣等感というよりも、人と違うことの優越感が強かった。今も、左利き用に作られているものが少ないので、時折しんどいと感じることもあるが、そこまで苦労したことはない(営業職・女性)」

 「左利きだったことで会社生活に不便を感じたことはない。学生時代、通学時に切符を使っていたときは大変不便だったが、Suicaが出始めて楽になった。パソコンのマウスは右利き用だが、かなり前から右手で使う訓練をしているので全く不便は感じない。日常生活においても支障はないが、ペンで文字を書く際には、手が汚れたり、メモの左端から書き始めるときに手を支える場所がなくふらつくことはある。現代社会において、左利きという理由で大きな不便さを感じている社会人は恐らくそこまで多くないのでは(エンジニア・男性)」

 日常生活において不便を感じる場面は時折あるものの、そこまで大きなストレスには感じていない人が多いのかもしれない。

 通勤時や仕事をする場面にフォーカスすると、右利き仕様になっている道具にはどのようなものがあるだろうか。従業員に話を聞いた中でも挙がっていた「駅の改札」は最たる例と言える。その他、会社の中でも、パソコンのテンキー配列、カーソルの矢印の向き、クリアファイルなど色々と挙げることができる。

リブセンスの総務は?

 リブセンスでは、そういった備品に関してどのような対応を行っているのか。総務担当に話を聞いてみた。

 「パソコンについてはWindowsとMacのどちらを希望するか入社時に確認しており、その延長で備品に関する従業員からの要望に対してすり合わせを行っている。個別の要望を承認するかどうかは、業務上の必要性や金額感、生産性の観点などを踏まえて都度判断している。ただ、利き手は特に確認はしておらず、他社でもそういった事例は聞いたことがない。仮にもし本人から相談があれば、同様に生産性や使い勝手などの観点を踏まえて判断し、対応することになるだろう(総務担当・男性)」

 ここで一つ、気になったことがある。それは、左利き用の備品に対応するかどうかの判断軸が、「ダイバーシティ」の観点ではなく「生産性」の観点になっていた点である。担当者に投げかけてみた。

 「確かにダイバーシティの観点はあまり考慮できていなかったかもしれない。これまでの観点にダイバーシティの観点も踏まえて今後は対応していきたい。一歩進んで、入社者に対してこちら(総務担当)から利き手を確認するアクションを今後取るかどうかはまだ分からないが、個人的には前向きに検討したいと考えている」

「生産性」の危険性と、差別・抑圧の根深さ

 ヒアリングを通じてハッとなったことが二点ある。

 一つは、企業は生産性の文脈を超えてどこまでダイバーシティに取り組むべきか、という問いだ。「ダイバーシティ」という言葉が市民権を得て久しいが、「ダイバーシティ経営」という言葉もあるように、企業がダイバーシティを推進する原動力となっているのは、「多様な意見や視点を取り入れることで生産性や競争力の向上が期待できる」という論理だ。

 もちろん、企業は利益を上げなければ存続できないので、生産性や競争力を重要視するのは当然である。だが、考えてみて欲しい。だとすると、生産性が向上しないダイバーシティは切り捨てられるべきなのか。そういった論理が、抑圧や差別を再生産したり助長したりする温床になっている可能性はないだろうか。

 もう一つは、自らが差別や抑圧の当事者であることを自覚することの難しさだ。先に私は、「左利きの人は差別されている、と言われてもあまりピンと来ない」、「現代の日本社会においても、左利きの人は差別はされていなくとも、抑圧を受けているということは言えるかもしれない」と言った。

 しかし、インターネットで検索してみると、左利きであることが理由で学校でいじめられたり、心ない言葉を浴びせられたりといった経験をした人の話が数多く出てくる。右利き用の道具についても、「少ししんどいな」くらいに感じる人もいれば、「自分は世界から差別されている」と捉える人もいるだろう。

 自分が見えている世界で接する機会がなかったからといって、なぜそれを一般化してしまったのだろうか(あるいは、私の身の回りでも左利きの人が大変な想いをしていたのに、単にそれに気付かなかっただけかもしれない)。

 差別や抑圧は、往々にしてとてもカジュアルな姿をしている。他人事ではない、という当たり前のことを改めて突きつけられて、ゾッとしている。

執筆 金土太一

日々、目の前のヒトとコトと向き合いつつ、個人と組織がどちらもwin-winになれるよう試行錯誤している。最近意識していることは平等(equal)ではなく公平(fair)であること。労務からキャリアをスタートし、人事企画、広報と領域を広げ現在に至る。プライベートではテニスを愛する二児の父親。

編集後記